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八剱八幡神社の創建の歴史は、日本武尊が東征の折り戦勝祈願した頃に遡り、以来当社は東京湾中央部守護神として、また木更津市民の心のよりどころとして、多くの氏子、崇敬者から慕われてきた。木更津総鎮守
<八剱八幡神社の由緒>
当社の社伝によると往昔このあたり一帯の地を八剱の里と呼び、この里の神を八剱の神と称え、この神に仕えるはふりを八剱と申した。
人皇第12代景行天皇の40年、日本武尊御東征の折り、相模国(神奈川県)より此の地に渡らんとするとき、浦賀沖で暴風雨に遭遇し御船が転覆寸前となった。そのとき妃橘姫が、「これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり」と海の神の怒りを静めようとして、尊の身代わりとなって御入水あそばれた。
そのことにより、尊は無事に此の地にお着きになりましたが、姫の死を悼んでしばらく当社にご滞留になり、此の地を去ることをなさらなかったので、「君去らず」と呼ぶようになり、なまって現在の木更津」になったと伝えられる。
源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営する。天正19年徳川家康公社領3石2斗を寄進せられ、御朱印の証を授与される。慶長17年大阪冬の陣が起こると木更津より多くの船頭が召出されて、向井忠勝、小浜光隆軍のもとで目覚しい働きをした。これも八剱八幡神社の霊験加護のたまものであるとして、特に当社の宮司らを駿府城内に招き、銅鳥1隻と銀子を贈り神恩に感謝した。宝暦2年に木更津の大火に依り社殿焼失。安永2年に現社殿を再建。寛政9年に社殿修理を加える。大正3年に社殿の大改修をする。また、明治4年には郷社に列せられる。昭和55年の社殿改修に際しては、格天井装飾画(162枚)も復元され、現在は厄除・交通安全・初宮詣・七五三詣・商売繁盛・合格祈願・学業成就等の守護神として鎮座する。(八剱八幡神社HPより引用する)
<五大力船絵馬>(ごだいりきせん えま)」(市指定文化財)
五大力船は、江戸時代から明治時代にかけて、木更津・江戸間の輸送を行った船であり、一般に木更津船とも呼ばれた。
その成立は、「大坂の陣」で戦死した木更津村の水主の戦功と遺族救済のために、幕府から江戸湾における南総の物資輸送の特権を与えられたことによると伝えられる。
絵馬の意匠は、一般に海難救助図と呼ばれ、海上の安全を願ったものだが、そこには郷土で成立した五大力船の姿が写実的に描かれている。
大きさは、縦51.8cm、横85.4cmで、明治時代初期のものと思われる。
<八剱八幡神社の格天井装飾画>(市指定文化財)
拝殿格天井(ごうてんじょう)を飾る162面の装飾画は、狩野派の技法が忠実に駆使され、風景・花鳥・動物などが多く描かれている。なかには狩野派の粉本にのこる題材もみられる。
八剱八幡神社の再建は安永2年(1773)と伝えられるので、この装飾画の製作年代もその頃と推定される。 |
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<源頼朝「お手植えの蘇鉄」>
この蘇鉄(そてつ)は大正15年(1926)5月に当時の(株)木更津銀行頭取露崎銀平氏が、森家から譲り受け、奉納されたものである。
森家は屋号を『相駒』と言い、君津市草牛の山中に在り、その山道を馬に乗り鹿野山まで登る人、又は下って来た人もこの家の前で休憩し馬同士が顔を合わせる所から、この場所を「相駒」というようにようになった。
頼朝も、ここで兵馬の疲れを癒やし、北上する際に森家にお礼として蘇鉄を植えたといわれる。
また、頼朝と当社八剱八幡神社との関わりは深く、鎌倉幕府を創始した頼朝は保元、平治の乱で大敗した源家再興の為、治承4年(1180)8月安房国平北郡猟島(現在の鋸南町竜島)に渡り房総で兵を募った。時の豪族千葉常胤・上総介広常等の協力を仰ぎ、次々と関東の諸豪族を配下に収め平氏討伐の根拠地とした。頼朝は、ここ木更津を通過の折り、当社に戦勝祈願に訪れ、その後神領を奉納したと伝えられる。
この事蹟を知る露崎氏が代々大切に育ててきた森家の蘇鉄を譲り受け当社に奉納した。現在では立派な大樹となり「お手植えの蘇鉄」として多くの人に知られている。 |
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