|
|
|
|
|
|
|
|
長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱(かかえ)屋敷であったので俗に大夫山(だいぶやま)とよばれた。
松陰は安政3年(1856)長州萩において松下村塾を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの師弟を薫陶(くんとう)し、かれらに大きな影響をあたえたのである。
松陰は安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死した。その4年後の文久3年(1863)、高杉晋作、伊藤博文等によって、この地に改葬された。
明治15年(1882)11月、松陰門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて松陰の御霊を祀り神社が創建された。
祭神:吉田寅次郎藤原矩方命(よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
松陰の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。
塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継いだ。その後、松陰が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続いた。
松陰は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していた。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導した。
塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築が行われた。松陰が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことであった。
実際に松陰が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。 |
|
|
|
|
|
<松陰神社道の道標>
旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)から松陰神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に松陰神社境内に移設した。明治45年乃木希典により寄進。 |