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愛宕神社は徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建された。幕府の崇敬篤く社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ていた。また徳川家康のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られている。
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失したが、現存の社殿は昭和33年(1958)再建された。
海抜26mは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残している。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導いた。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっている。
ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は6月の千日詣り、羽子板絵馬にてその名残りをとどめている。
伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり |
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万延元年には水戸の浪士が神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもあった。 |
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寛永11年3代将軍家光の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上り、社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ、「出世の石段」の名も全国に広まった。
<愛宕山>
愛宕山は洪積層の丘陵地で、標高は26mである。頂上に愛宕神社が祀られ、江戸時代から信仰と見晴らしの名所としてにぎわった所である。
愛宕神社の祭神は火の神(火産霊命ほむすびのみこと)が中心で、江戸時代には幕府の保護もあり、多くの人々から火伏せの神として信仰されてきた。
今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができた。
また、愛宕山には、男坂・女坂・新坂などの坂道があり、男坂は神社正面の86段の急勾配の石段で、寛永年間に曲垣平九郎がこの石段を馬で上下したと伝えられる。(境内解説文) |