|
|
|
|
|
|
寛永4年(1627)、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建された。源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川家の保護を受け、町民にも「深川の八幡様」と親しまれた。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失する。
富岡八幡宮を有名にしているのは、毎年8月15日に行われる「深川八幡祭り」であろう。この祭りは、江戸三大祭に数えられ、3年に1度本祭りが行われる。神輿が練り歩く様子はよく報道されている。三大祭りとは、赤坂・日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭、そして深川八幡祭を指す。
境内に江戸時代に測量をした伊能忠敬の像がある。これは、伊能忠敬が深川界隈に住んでいたことや富岡八幡宮に参拝に来ていたことから建立された。 |
|
|
|
|
|
<横綱力士碑>(江東区指定有形文化財(歴史資料))
力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第12代陣幕久五郎が中心となり、明治33年(1900)に建てられた。重量 約五千五百貫(約20トン)
古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大阪・京・江戸で興行として開催された。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(1684)の富岡八幡宮境内だった。その後、明和年間(1764〜71)には、春・秋2場所のうち1場所がこの地で開催され、享和元年(1801)までに本場所31回を数えた。
偉容をを誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕・不知火顕彰碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。
正面参道・大鳥居手前左側には「大関力士碑」が建立されている。 |
|
|
|
|
|
<伊能忠敬銅像>
近代日本地図の始祖である伊能忠敬は、事業に成功したあと50歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていた。
約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけた。
忠敬はこのときを含めて全部で10回の測量を企画したが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出した。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所である。 |
|
|
|
<富岡八幡宮神輿>日本一の大神輿
八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と言われていたが、大正12年(1923)の関東大震災で惜しくもその全てを焼失してしまった。
それ以来、本社神輿の復活は深川っ子の念願であったが、平成の世になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活した。
型の名称 屋根延神社型金地塗神輿
台輪幅 |
五尺 |
ダイヤモンド |
鳳凰の目(4カラット2個)・鳳凰の火焔(7カラット) |
高さ |
十四尺五寸 |
狛犬の目(3カラット2個、1対) |
重量 |
4.5t(渡御時における推定) |
隅木の目(1カラット2個、4体) |
屋根の大きさ |
最大幅十尺(蕨手装着時) |
小鳥の目(1カラット2個、4体) |
担ぎ棒 |
十本(本棒二本、縦添棒四本、横添棒四本) |
ルビー |
鳳凰の鶏冠(2,010個) |
|