|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<住吉神社の水盤舎(おみずや)・陶製扁額>
住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわった。
水盤舎は欅(けやき)材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治2年(1869)に再建され、同44年(1911)に改築された。水盤舎の欄間は、明治2年再建時のものを使ったと推定されている。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られている。石造の水盤には「天保12年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染め付けている。明治15年(1882)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されている。
<五世川柳 水谷緑亭句碑>
水谷緑亭(1787〜1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といった。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名主をつとめたと伝えられている。また、養父母に孝養をを尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から3度にわたり褒賞を受けた。
文化年間(1804〜1818)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号している。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保8年(1837)50歳の時に五世川柳を継承した。
五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた『誹風柳多留』が167編で刊行を終えるが、天保12年から『新編柳多留』を刊行し、嘉永2年(1849)の終刊まで55編を数えた。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に「柳風狂句」と名付けている。
編著には『狂句百味筆筍』をはじめ『住吉社奉額狂句会』等がある。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、『遊仙沓春雨草紙』『祥瑞白菊物語』などの草双紙や、『俳人百家撰』などの伝記物等も著している。
この句碑は、昭和41年(1966)11月に佃の人々によって建立されたもので、
と緑亭の句が刻まれている。 |
|