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文政元年(1818)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳が、領地(福岡県久留米市)の水天宮の分霊を神主に命じて藩邸内に分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮は、今からおよそ700年程前に創建されたと伝えられている。
彼の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が、源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の霊をささやかな祠をたてて祀ったのが創めです。
江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ、参拝したと言う。ただし、毎月5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝が許された。その当時、参拝の妊婦が鈴乃緒(すずのお)(鈴を鳴らすさらしの鈴紐)のおさがりを頂いて、腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まった。その当時の水天宮の賑わいを表す流行言葉に「なさけのありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。 |
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明治維新により藩邸が接収され、有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年(1872)11月1日現在の日本橋蛎殻町に鎮座した。
関東大震災では神社も被災したが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れた。その後、復興も相成り、昭和5年(1930)流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年(1967)現在の権現造りの社殿となった。妊婦の参拝が多い社である。 |
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