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神田明神(神田神社) 江戸の総鎮守   東京都千代田区
神田明神(神田神社)
神田明神(神田神社) 神田明神(神田神社)
神田明神(神田神社) 神田明神(神田神社)
 神田明神の通称で人々に親しまれている古社。正式名称は神田神社である。社伝によると、聖武天皇の御代、武蔵国豊島郡芝崎の浜辺(現在の皇居大手門前)に宮居を定められてより千数百年、その間鎌倉時代に時宗二祖真教上人は平将門公の霊を鎮めて当社に祀り、さらに、元和2年2代将軍徳川秀忠公は現在地に壮麗な社殿を造営し、遷座のうえ江戸の総鎮守の神として、代々尊信せられた。また当社の神田祭は日本3代祭りの1つとして氏子百余ヶ町よりねり出す神輿、山車の行列は文化文政の頃を頂点として盛儀を極めた。明治7年には、常陸国大洗磯前神社より少彦名命を勧請して同年9月畏くも明治天皇の行幸を仰ぎ社運は弥栄え今日に至っている。(御由緒書より)
 左下の石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の1つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。『武江年表』には、「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。神社境内の獅子山に据えられていたが、大正12年(1923)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は紛失したものの、親獅子2頭は保護され、再建された獅子山に据えられた。
神田明神・水盤 神田明神・水盤
水盤
 この水盤は、左右の側面にある銘文によれば文化2年(1805)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納されたことがわかる。さらに、背面の銘文によると、安政3年(1856)6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む45名の人々によって再建されたと考えられる。安政3年の人物について調べてみると、「諸問屋名前帳」(国会図書館所蔵)からこれらの人々の中には川辺炭薪問屋仲間・炭薪仲間・人宿・六組飛脚問屋などといった職業を持つ町人たちであることがわかる。また再建にあたり揮毫を書家の平林惇一が行っているが、平林惇一は書家細井広澤の流れを汲み、江戸日本橋室町で代々書屋を営んでいた平林家に関わりがある人物と考えられる。
 この水盤は、千代田区における江戸時代の信仰の一端、特に神田神社(神田明神)やその末社である金刀比羅神社・三宿稲荷神社と江戸の町人たちとの関わりを知ることができるものです。(神田明神にて撮影)
神田明神・力石 神田明神・力石
力石
 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは石を依代(よろしろ)としている神々も多い。
 また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。しかし、これらは石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い(まじない)等であったようである。(疫病は道を伝わって来ると信じられていた)
 境内にある「力石」の由来はつまびらかではないが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。本力石は、その銘文から文政5年(1822)12月に神田仲町二丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされる。 
 なお、力石は千代田区指定有形民俗文化財になっている。(神田明神にて撮影)
神田明神・正月風景 神田明神・正月風景
神田明神・茅の輪 神田明神・正月風景
神田明神・鉄製天水桶 神田明神・神田囃子
 正月の神田明神の様子である。神田囃子の音色が境内に響き渡り、はれやかな雰囲気を醸し出している。
茅の輪
 正面よりまず左にくぐり、右・左と8の字形に3回くぐる。悪疫を免れるということです。
鉄製天水桶(左下画像)
 本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石」と「筋違外」(すじかいそと)の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかる。また他に「下り・地廻酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起される。
 諸問屋の株仲間は、享保時代(1716〜36)から特権化しはじめた商人が、田沼時代以降幕府に公認されてきたものです。この株仲間は、物価騰貴の一因として見なされ、天保12年(1841)に解散が命じられた。しかしこの解散が、経済の一層の混乱をきたしたと判断され、株仲間は僅か10年後の嘉永4年(1851)新たな商人層を加えて再興された。なお株仲間再興以後の本組の問屋名などを記載した「諸問屋名前帳」には、碑文にある世話人や願主などの名前を見出すことができる。
 天水桶の奉納は株仲間の解散期間中のため、その碑文は「下り・地廻酒屋中」とされている。しかし、仮にもし株仲間が組織されている期間であれば、前述した通り奉納に係わる商家は再興後の株仲間として組織されていることからみても、恐らくは「問屋中」などと表現されたことでしょう。
 他の碑文の内、江山関根為宝(こうざんせきねいほう)は、幕末の書家であり、天保12年前後の著作が幾つか残されている。書道ばかりではなく歌をも詠み、音韻の学にも通じていたとされている。また二人の鋳物師の名前が見られるが、恐らくは神田の堀口武兵衛が仕事を請け負って、川口の永瀬源七に鋳造させたものと思われる。
 神田神社の「鉄製天水桶」は、江戸時代の信仰の一端、特に神田神社と周辺の人々との関わりを考える上で、欠くことのできない貴重な資料です。
神田囃子由来(右下画像と下の動画)
 建久3年(1192)源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ鶴岡の社前で盛大な祭祀が行われた際、その道の達人6人が選ばれて五人囃子を奉納したのが始まりといわれ、曲節の美妙と勇壮が当時の武士の嗜好に適し一時に流伝したと伝えられる。
 かくて徳川時代に入り家康が江戸に入城してから慶応末期までの江戸300年間の間、世の太平と共にかの豪華な神田祭を始め祭礼に囃子はつきものとして隆盛をきわめ、上は将軍大名から下は一般庶民に至るまで広く愛好されるに至った。
 こうした歴史と伝統に育てられて明治時代に入ると祭礼は庶民唯一のリクリエーションになり、特に神田明神の祭礼は江戸の名物として時代の文化を代表するようになった。
 神田囃子は実にこうした歴史の中から生まれたのである。
 神田囃子は神田堅大工町に居住する新井喜三郎氏が15代の家元で、その弟子長谷川金太郎、金吾両氏、先年物故した青山啓之助氏が家元を継ぎ、先代在世中昭和27年(1952)10月東京都から郷土芸能として無形文化財に指定された。
 神田明神の祭神は、一の宮大己貴命(おおなむちのみこと・だいこく様)、二の宮少彦名命(すくなひこなのみこと・えびす様)、三の宮平将門命(平将門)である。三番目に平将門の名があるということに興味がわく。徳川幕府が厚く保護したことの意味を考えればうなずける。東国の一般庶民に慕われている将門を祀る神(神田明神)を江戸総鎮守にしたということである。三番目にしたということは何か意味があるのでしょう。 
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