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祭神は、倉稲魂命・日本武尊・弟橘媛命の三柱である。
江戸時代に当社に伝わった縁起によると、その昔、日本武尊が東征の折、この地へきて倉稲魂命(稲荷神)を祀ったことが起源であるとする。また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡る際、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。
江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近郊のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などをおこなったりした。当社は、関東総司とも称したほか、江戸時代後期に作られた「稲荷番付」では行司の筆頭にあり、江戸にあった多くの稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられ、高い社格を有した。 |
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<妻恋神社と夢枕>
その昔、日本武尊の東征におり、三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に会い、妃の弟橘姫が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。途中尊が、湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで、尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝える。後、稲荷明神(倉稲魂命)を祭った。
江戸時代、妻恋稲荷と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷と並んで参詣人が多かった。また、正月2日の晩に枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物の木版刷りの「夢枕」が売り出された。
”お宝お宝と大音声に呼ばったり”(宮島五丈原)「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の2枚の夢枕は、万治年間(1658〜61)に創案され当社が版権を所有していた。版木は、戦災で焼けたと思われていたが昭和52年12月摺師(すりし)の家で見つかった。幻の夢枕は、関係者によって日の目を見て、売り出されるようになった。 |
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