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北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。縁起によると、寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
<ねがい牛(牛石)の由来>
1.源頼朝公がこの地で休息の折に、腰掛けられた石である。
2.この石は菅原道真公により願いが叶った。
3.願い事が叶った事、牛に似ている事で「ねがい牛」「牛石」と呼ばれた。
4.是の石を御祭神として奉り、牛天神と名づけた。
5.この牛石に願いをかけ撫でると「願いが叶う」と伝えられ、今も尚信仰されている。
<北野神社の由緒>
当社は寿永3年の昔、右大将 源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。(牛天神北野神社境内掲示。掲示板により年号が異なり気になる) |
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<芸能の神・福の神 太田神社>
芸能の神・天尊鈿女命と、式の神・猿田彦命をまつる、人々の信仰厚く、関東大震災のころまでは祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人でにぎわったという。
芸能の神として、歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者がたびたび参拝に訪れた。なお、この神社はもとは貧乏神といわれた黒闇天女(弁財天の姉)をまつっていたが、江戸のころ、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。
合祀の高木神社は、旧・第六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。
<中島歌子の歌碑>
境内の南側に、中島歌子(1844ー1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1,000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)門下生によって建てられた。
雪中竹
ゆきのうちに 根ざしかためて若竹の
生ひ出むとしの光をぞ 思ふ |
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