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龍尾神社は掛川城の北東に位置する古社で、古くは「龍尾山牛頭天王」と称していた。掛川城の築かれた峰から連なる山脈を、この地を守護する龍になぞらえ、龍頭山・龍胴山・龍尾山と名づけ、鬼門にあたる龍の尾の山に当神社は鎮座している。龍尾山は城の攻守の要であり、かの天王山の戦では、徳川家康が本陣をおいた場所としても知られている。
神社の創祀に関しましては詳らかではないが、延喜式内社の真草神社が当社であるとの説もあり、神宝である「真草」の社額がその関係を物語っている。鎌倉時代の書物(宝治2年(1248)時の地頭職忍十郎義広が遠江国旧社詣の記)に「みな人も 深き願ひを 掛川の 龍の尾山の 神のみずがき」と龍尾神社を詠んだ和歌が見られることから、当時すでに現在の地に鎮座していたことが窺える。
また掛川城の築城に際して、旧城域に祀られた古い社を当社に遷宮合祀し、以来掛川城の守護神として、歴代城主のみならず、掛川藩の民や東海道を往来する旅人の信仰をあつめた。
尚、現在の本殿は江戸時代中期の掛川城主、小笠原山城守の御造営によるものです。その他境内には、城主太田備中守奉納の石灯籠や、獅子頭、木製瓶子など歴史的にも貴重な品々が伝わっている。
<山内一豊との縁>
山内一豊が遠州掛川に封ぜられてから土佐国に入るまでの10年間、この地は大いに発展した。寺社を大切にした一豊の掛川城守護神、龍尾神社への崇敬は特に篤く、掛川で生まれ、後に2代目となる養嗣子忠義の氏神とした。
土佐国に国替えされた後の寛永年間、一豊の志を継ぐ忠義は使者占部兼里を掛川に遣わし、当社の分神を高知城下に勧請、「掛川神社」と号して大切に祀った。その折、山内忠義より奉納された「蘇鉄」と「土佐の石」は社殿脇に現存し、山内家との縁を今日に伝えている。 |
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龍尾神社のしだれ梅。約300本ともいわれる紅梅・白梅・桃色のしだれ梅が植えられている。小高い丘からしだれ梅の景観を一望でき、また、梅の花の合間に掛川城も見ることができる。 |
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