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この神社は第十代藩主黒田長元により、安政6年(1859)5月、垂裕大明神(藩祖長興)を祭神として勧請されたものである。
当初は秋月八幡宮に祀られていたが、元治元年(1864)、現在地の一角に遷される。明治6年(1873)旧家臣の出願により、社殿・拝殿が造営され、さらにその後数回の改修を経て、現在に至る。
<垂裕神社由来記>
ここは、旧筑前の国 秋月である。当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主黒田長興公 (1610〜1665)を奉祀する。長興公は、福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚沈毅にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。
1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。
1638年(寛永15年)島原の乱に際しては、(公は時に28歳)幕命に従って諸藩と共に出陣、原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。
1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主 長元公(土佐 山内家より養子)は藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。
1873年(明治6年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり旧御館裏の空谷杉や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者が多く崇拝の社となっている。
時がうつりて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。
参道の黒門は、秋月氏時代(1203〜1587)の古処山城の搦手門であったものを、長興公の秋月築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財) 1999年10月 垂裕神社維持委員会 |
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