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古くは笹原と呼ばれる神聖な丘とされたこの地に、城の原型となる砦が築かれたのは永正年間(1500年頃)。高良山衆勢力下の戦国時代は、四方を強大な勢力に囲まれ、覇権争いの最前線だった。その後、領主は小早川家、田中家と移り、元和7年(1621)、有馬豊氏が入封。久留米藩政250年の基礎を築いた。幕末以降、久留米の剛毅な気風が生んだ変革の志を持った若者の多くが、明治4年(1871)の「久留米藩難事件」と、そこに至る数々の事件に殉難し新時代の礎となっていった。同年、廃藩置県により藩政は終わりを迎え、明治10年(1877)、旧藩有志は心の安寧と人々の融和を願い、有馬豊氏公命、頼永公命をご祭神として篠山神社を創建。後に頼僮公命、頼咸公命、頼寧公命が加わり、5柱となった。 |
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<東郷元帥旧書斎由来記>
東郷元帥(1847−1934)は日露戦争(1904−5)のとき連合艦隊司令長官として日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、国難を救い日本の名を世界に輝かした方であるが、その人柄は謙虚寡言ひたすら国を愛する以外に余念がなく、国民の師表、護国の聖雄として内外から敬慕されていた。
久留米市出身で実業界に活躍された故小倉敬止翁は熱烈な元帥の崇拝者で、元帥が大佐の頃使用されていたこの書斎を特にお願いして拝受し、郷土の人々と共に記念しかつ子弟の教育資料とするため大正15年(1926)久留米市に寄贈され、終戦後は当神社境内に移されていたところ、長年月による腐朽甚しく心ある人々の胸を痛ませていた。
ブリジストンタイヤ株式会社社長石橋正二郎氏がその郷土愛の発露として、篠山城趾に有馬記念館を建築寄贈されるに当り、日頃私淑される元帥の書斎をも現在地に移築復元し、後世の人々に元帥の遺徳と小倉翁の遺志を示されんとしたものである。 1960年3月 篠山神社 |
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