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<明治天皇勅宣>
長門国桜山招魂場を弔し給へる勅宣
汝等晨に乾綱の不振皇威の不宣を憂へ尽忠致死人をして感奮興起せしむ
朕今巡行追感殊に深し
依て侍従番長高島昭光を遣し汝等の墓を弔し且金幣を賜う宣す
明治五年六月十二日 |
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弔らはる人に入るべき身なりにしに
弔ふ人となるぞはずかし(高杉晋作) |
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<桜山神社招魂場>
元冶元年(1864)1月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(1865)8月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。
創建当初は、文久3年(1863)5月10日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死したもの、さらには長州の尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋らの霊も加え、今日では396柱の志士がここに祀られている。
この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉という名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士・町民の身分制度を越えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。
なお、この地は奇兵隊の調錬場でもあり、招魂になって以後桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い維新史跡の中でも、ことに重要な意味を持つ聖地ということができる |