鍋島直正 |
佐賀藩10 代藩主。天保元年(1830)に藩主となり、積極的に藩政改革を進めるとともに、西洋文明をいち早く取り入れ、医学・科学技術・軍事技術等の近代化に努めた。明治政府では議定や北海道開拓使長官、大納言に任じられた。 |
佐野常民 |
先端科学技術の研究や実験を行う佐賀藩精錬方の主任をつとめた。明治政府では、海軍創建に力をつくし、大蔵卿や元老院議官をつとめている。西南戦争のときに、博愛社(後の日本赤十字社)をつくって負傷者の救護活動を行い、のち日赤初代社長をつとめた。 |
島 義勇 |
藩主直正の命により、安政年間に蝦夷・樺太(サハリン)を探検。その後。北海道開拓首席判官として、札幌市街建設など北海道開拓に貢献した。のちに侍従、秋田県権令などをつとめるが、佐賀の乱で政府軍と戦い、敗れた。 |
副島種臣 |
外務卿として、対中国外交やマリア・ルス号事件の解決に当たり、外交官として高い評価を受けた。明治7年(1874)、民撰議院設立建白書を板垣・江藤らとともに政府に提出した。のちに学識を認められ、天皇の侍講をつとめている。「蒼海」の号で書家としても有名。 |
大木喬任 |
明治政府では、江藤とともに東西両都論を主張し、東京府知事になった。その後、初代文部卿として「学制」を公布するなど近代教育の基礎を確立した。また、司法卿として民法の制定などを行い、法体制の整備に貢献した。 |
江藤新平 |
明治初年の佐賀藩の藩政改革を行った後、明治政府の国家制度の整備につとめた、明治5年(1872)初代司法卿となり、司法権の独立や人権擁護の法制化などに情熱を注いだ。翌年、参議になるが、政変により政府を去る。その後、島義勇とともに佐賀の乱に参加し、敗れた。 |
大隈重信 |
明治政府では、参議、大蔵卿などをつとめた。明治15年(1882)、立憲改進党を組織し、また東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。明治31年(1898)、わが国初の政党内閣の総理大臣となり、大正3年(1914)には2度目の内閣を組織した。 |