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大石神社は明治元年(1868)、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に神社神社奉斎の議が起こり明治33年(1900)神社創立が公許され、大正元年(1912)11月3日義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった。
ご祭神四十七義士が1年10ヶ月の永い間艱難辛苦の末見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている。
境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そして義士片岡源五右衛門、大石瀬左衛門の邸跡一帯である。
尚、ご社殿を始とする境内各施設は平成平成14年(2002)の義士討入り満300年を記念した境内整備事業により一新された。
その後、浅野家三代の城主長直・長友・長矩の三侯、浅野家断絶後の城主森家の遠祖、本能寺の変で亡くなった森蘭丸等七代の武将を合祀している。
<例大祭日>
この日は赤穂義士が吉良邸に討ち入り見事主君の仇を討った日であり、赤穂市を挙げての義士祭が行われる。 |
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<両国橋の源五と其角> (上左)
討ち入りの当日笹竹売りに身をやつした大源五は吉良邸の偵察に出かけ、両国橋までくると俳句友達の宝井其角とばったり。其角は源五の姿を見て
「年の瀬や水の流れと 人の身は」と一句詠んだのに対し
「あしたまたるる その宝船」
と源五が詠み返し、別れを惜しんだという。
<吉良邸討ち入り> (上右)
元禄15年12月14日の夜(今の時間でいうと15日の午前4時頃)、本所松坂町の吉良邸へ向かった大将大石内蔵助良雄ら23人は表門から、大石主税良金ら24人は裏門からそれぞれ討ち入った。
一般には雪の降る中を陣太鼓を打ち鳴らしながら討ち入ったように思われているが、実際はそんなことはなかった。 |
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<永代橋から引揚げ> (上左)
上野介の白髪首を挙げた内蔵助ら四十七人は吉良邸の裏門に近い無縁寺へ向い休憩するつもりでいたが、一同の異様な風態に怖れをなした回向院では開門しないので直ちに泉岳寺へ引きあげることとなった。
内蔵助らは始から両国橋を渡るつもりはな隅田川沿いにく永代橋を渡って泉岳寺へ向かった。
<冷光院殿に奉告> (上右)
赤穂浪士が泉岳寺へ着いたのは今の午前10時過ぎであったが、ここで寺坂吉右衛門は大石からの密命をうけて門前から姿を消している。
内蔵助らはまず上野介の首を井戸で洗ってから冷光院殿の墓前に供え、亡君の無念を晴らしたことを奉告し、一番に十次郎、二番は武林、三番目に内蔵助が焼香した。 |
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<勅使差遣と神社創建> (上左)
明治天皇は明治元年(1868)東京行幸に際し、泉岳寺墓前に勅使を差遣され、良雄らを弔し義士として深く賞賛する旨の勅宣と金幣を賜った。
そのことを契機に神社創建の議が起り、全国崇敬者の奉賛によって明治33年(1900)神社創立認可大石内蔵助良雄以下47人を祀る大石神社が、赤穂城三の丸に御鎮座になった。
以上は大石神社境内の絵馬より。 |
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<浅野家 大坂屋敷の舟石>
この舟石は、その昔、赤穂浅野家、大坂藩屋敷(現在大阪市北区中之島4丁目常安橋付近)の庭にあったものである。
大きさは長さ3m、巾1m20p、重さ約2トンの自然石で、水穴は長さ1m、巾60pの花崗岩の一枚石である。
この石によって蓬来山の不老不死延命長寿の秘薬を求め、金銀財宝を得んとする中国の神仙思想から大名屋敷や社寺の庭園に据えられたものである。 |