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新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)、は文治2年(1188)後鳥羽天皇の勅命により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊成が、五条大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通朗姫(そとおりのいらつめ)を勧請したことに由来する。
それに先立つ寿永2年(1183)、後白河法皇の院宣により、藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千載和歌集」を編纂し始めた。ちょうどその年、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちするが、門下の一人である平忠度は危険を顧みずこの屋敷に引き返し、「一首なりとも選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で、俊成はその中から次の一首を選び、千載和歌集に載せたという。
さざなみや 志賀の都は あれにしを
むかしながらの 山ざくらかな |
江戸時代には、「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で、松尾芭蕉の師である北村季吟が、約7年間この神社の宮司として住み、万葉首の注釈書「万葉拾穂抄」の編纂に励んだ。
これらの由縁から、今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れている。なお。本殿は入口から90度曲がっている。 |
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