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社伝によれば、貞和4年(1348)に鴨川西寄りの中州の岬に祠を建てて祀られたのが始まりで、その後、江戸初期になって、備前島町に建てられた土佐藩京屋敷内に鎮座される折、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・石栄神(せきえいのかみ)に二座を祭神としたため、通称土佐稲荷・岬神社と称された。
当屋敷内の人々は勿論、幕末の志士坂本龍馬等もこの神社をあがめ、近隣周辺の人々からも手厚く尊崇されたので、町衆にも屋敷内の通り抜け参詣を許すなど異例の措置をとったという。
特に先斗町・木屋町の町衆などからは近隣の産土神(うぶすなかみ)として崇敬されたが、明治維新になり土佐藩京屋敷が売却されるとき、一時、下大阪町に奉還。その後、神社の衰微を憂い、備前島町の近江屋(初代・井口新助)が元土佐藩用人邸を買取り、明治20年遷座したのが現在地である。
大正2年には先斗町・木屋町その他、近隣在の信徒が募金を行って大規模な造営を行い、現在の社殿が建立された。
さらに近年に及び先斗町・木屋町など周辺の有力町衆信徒により、崇敬会が設立され、浄財により、社殿及び、明治十年より伝わる「みこし」も完全に修復し、近隣団結のシンボルとなり、火除け・厄除け・大願成就・或は縁結びの神として、地元町衆に信仰されている。
当神社宮司は八坂神社宮司が兼任。
京都市歴史資料館 館長 森谷尅久 監修 |
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