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大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の三柱を祀る神社で正歴5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病鎮めのために御霊会を修せられ、長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請せられた。
本殿は明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。
今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する名称である。
なお、4月第2日曜、当社で行う「安良居祭」(やすらいまつり)は桜の開花の頃に行う病鎮めの祭事であり、京都の奇祭の一つとして知られている。 |
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<今宮の奇石>
此の阿呆賢(あほかし)さんは古くから神占石とも云われ、病弱な者はこの石に心を込めて病気平癒を祈り軽く手の平で石を撫で身体の悪きところを摩れば、健康の回復を早める。又、重軽石とも云われ、先ず軽く手のひらで三度石を打ち、持ち上げるに、たいそう重くなり、再度願い事を込めて三度手のひらで撫でて持ち上げる。
軽くなれば願いが成就すると言い伝えられている。 |
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東門から眺める景観も、離れて東門方面を眺める景観も落ち着いた穏やかな雰囲気を漂わせている。思わずカメラを向ける。
東門を出た所には、名物「あぶり餅」を売る店がある。あぶり餅は、餅を親指大にちぎって、きな粉をまぶしそれを竹串にさしあぶったものです。今宮神社参拝の帰りに「あぶり餅」を食べ、疫病除けをする習わしとなって伝わっている。 |
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別の日(年)に再び訪れる。赤子のご祈祷をしている光景に出会う。青空の下、すがすがしい日和であった。
<桂昌院(お玉の方)>
桂昌院は、寛永5年(1628)、西陣で八百屋の次女に生まれ、名を玉といった。その後公家二条家に出入りの本庄宗利の娘となり、関白家の鷹司孝子に仕えたが、やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、春日の局に認められて家光の側室となり、後に五代将軍となる綱吉を生んでその生母となり、晩年には従一位に除せられ、世に畏敬されつつ、至福のうちに、宝永2年(1705)79歳で没した。
桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、とりわけ西陣の産土(うぶすな)の神の座す今宮社が、当時荒れているのを嘆き、元禄7年(1694)から、時の奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、大いに復興に努めたので、祭りは往時を凌ぐほどの盛況を取り戻した。
更に元禄12年(1699)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、毎年今宮祭を祭行したと伝えられている。(東京都文京区音羽町に現存)
こうした桂昌院の業績は、没後三百余年を経た今日でも、神社中興の祖として、その遺徳を讃える産子が多い。また、一面、一介の市井人から、身を起こし乍ら、所謂「玉の輿」を昇りつめた類い希な女性として、その生涯を偲慕する人々も少なくない。 |