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<北陸道総鎮守・越前国一之宮「氣比神社」>
主祭神氣比大神は神代から此の地に鎮り給うた。
大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行ない仲哀天皇神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており此の七座の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代天皇をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治28年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と称した。
之単に北門の鎮護たるのみでなく日本有数の古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め9月2日より15日に及ぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。
上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和43年畏くも天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ、又昭和62年5月7日昭和の大造営に依る本殿遷座祭にあたり、再度幣帛料の御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。
戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である式内摂社角鹿神社がある。(社前案内板) |
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<氣比の大鳥居(旧国宝)>
当神宮は古く仲哀天皇の行幸・奉拝祈願があり悠久二千年の歴史を有する元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前国一之宮である。大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(810)の造営時に東参道口に創建されたが
度重なる災害に依り倒壊した為正保2年(1645)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。
明治34年(1901)国宝に指定(現在は国の重要文化財)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている。尚正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
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片雲の風にさそわれて元禄2年3月27日江戸深川の草庵を立った芭蕉は日々旅を栖として敦賀に杖を止めたのはその年の8月14日夕刻である。
芭蕉はまず待宵のここ気比神宮に詣で月下の社頭で二代遊行上人砂持ちの古例を知り深く感じて「なみだしくや遊行のもてる砂の露」と詠み更に推敲を重ねて
月清し遊行のもてる砂の上 芭蕉
となし「おくのほそ道」にこの句をとどめた
この由緒深い神域にこの度日本芸術院会員富永直樹氏の創作になる芭蕉像の建立を見たことはこの地に相応しい盛事であり俳諧の誠を伝えて意義が深い。
仰ぎ見る芭蕉像には長途の漂泊の果てに得た安らぎの姿をとらえて余すところがない。なお台座正面の芭蕉の句は敦賀市新道野の西村家秘蔵の素龍本「おくのほそ道」の原本より書体を写した(碑文)
<芭蕉と敦賀の月>
月を殊のほか愛した芭蕉は、元禄2年奥の細道の旅で敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地に来り、月の絶唱とも言うべき名吟に遊んだ。
碑の句は、その代表的な敦賀での作品であり、それぞれ敦賀の歴史風土景観のゆたかさを詠んでいる。
これらの他に敦賀では次のような月の句をもみる。
中山や越路も月ハまだ命
月のみか雨に相撲もなかりけり
衣着て小貝拾ハんいろの月 |