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嚴島神社は、安芸国嚴島神社の御分霊を平家の守護神として、安徳天皇の御座船におまつりされていたが、壇ノ浦の合戦後磯辺に放棄されていたの里人に神託があって、「吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と、ふしぎに思いながらそこに行って見ると、磯辺に御鏡太刀様の物をみつけ、文治元年(西暦1185年)里人たちが社殿を建立し、更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し、今日に至っている。(神社HP)
幕末に、高杉晋作が白石正一郎と共に、厳島神社 神前において奇兵隊の結成と必勝祈願を行っている。
「萩藩新地会所址」の碑が建っている。解説版の方は「萩藩新地御用所跡」とある。「会所」を「御用所」と訂正してある。
<萩藩新地御用所跡>
この地は平安時代は長崎村と云う名称で入海であったが萩領となった。後、享保15年土手町を開作し、更に宝暦12年より明和5年迄の6年間を費やして今の如く埋め立てたのである。
新地と云う名称は之に基づく。大内時代に支那貿易の鍵を握っていたいた時代、重要な地区で宝暦7年の調べによれば、在番打方物頭、板買改方、大筒役、足軽等、その他百余人。御用所は単に新地及び伊崎の一部だけでなく、引島彦島竹の子島六連島に遠見番所を設け非常時代供えていたのである。(解説版より)
元治元年(1864)12月15日、長府功山寺で挙兵した高杉晋作は、この新地会所を襲撃している。この襲撃を契機に藩内のムードは倒幕へと傾いていった。 |
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直径110cm、重量390kgのこの大大鼓は、かつて小倉城内(現北九州市)北側の櫓にあって城下に時を告げていたものである。
慶応元年(1865)四月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌2年(1866)6月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島県)・石州口(島根県)・小倉口(福岡県)の四境で戦いの火ぶたが切られた。
この四境戦争での長州軍の勝利は倒幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊の二隊を先鋒として戦い、遂に慶応2年8月1日、幕軍総師小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。攻め入った長州軍は余燼の中かららこの太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った厳島神社に奉納したのである。
現在、維新顕彰並びに小倉戦争の記念行事として、ここ厳島神社では毎年9月の第1土曜日に「太鼓祭」を催している。 |
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