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<元城町東照宮由緒>
御祭神 徳川家康公・事代主命・大国主命
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏(延陵)に依り、明治17年元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本報徳社に委ねていたが、昭和11年その所有権が井上家より亦管理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和20年戦災により焼失せるも昭和34年に社殿手水舎社務所等を再建し今日に至る。(神社由緒より)
<引間城本丸跡>
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達した。「船越」や「早馬」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれる。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていた。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衛(頭陀寺城城主)がいた。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れている。
徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年(1572)、武田信玄との三方ケ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨んだが、引間城の北口にあたる「玄黙(元目)口」へ撤退したといわれている。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかる。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていた。明治19年、旧幕臣井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっている。(静岡文化芸術大学 磯田道史教授) |
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元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。
戦国時代この城には、後に天下人となる二人の武将が相次いで訪れている。
天文20年(1551)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされている。
元亀元年(1570)には、今川家から独立を果たした徳川家康(当時29歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名を定めた。
この城は期せずして、二人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となった。ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえよう。
〇徳川家康(1542〜1616)
浜松時代 1570(29歳)〜1586(45歳)
〇豊臣秀吉(1536〜1598)
浜松時代(1551(16歳)〜1553(18歳)
(浜松市文化顧問 磯田道史) |
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<浜松時代の若き徳川家康像>
元亀3年(1572年)12月22日 三方ヶ原合戦時に武田軍に立ち向かった時の勇姿
家康はここ元城町東照宮(引間城本丸)を居所とし、新たに浜松城を築いた。
しかし、武田信玄に領土を侵され、危険を案じた織田信長から「浜松を捨てよ」との命令が出た。そのとき家康は「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし『武徳編年集成』」と言い放ち、命令を無視して踏みとどまり、戦国最強とうたわれた武田軍に挑み、この地より出陣した(三方ヶ原合戦)。しかし結果は大敗北。本社北東角の元目口にからくも生還した。
戦には負けたが、武田軍を城まで踏み込ませることなく撤退させた家康、今川家や織田家の命令をはなれ初めて自分の意思で戦い、浜松城を保って領民を守り抜いた姿である。 |
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<浜松時代の少年豊臣秀吉像>
天文20年(1551年)初めて武家奉公がかなったときの少年秀吉の姿
武士になろうとして、尾張の国より針の行商をしながら主君を捜す旅に出た。浜松の馬込川ほとりで、浜松の豪族松下嘉兵衛に出会い、ここ引間城(元城町東照宮)までつれてこられた。引間城主飯島家の宴会で、猿そっくりの口元で猿の物真似をして栗を食べて気に入られ、松下家へ初めての武家奉公の夢がかなった。『太閤素生記』。
浜松市南区頭陀寺の松下屋敷で、武家修行を積み、よく働き、良く学んだ秀吉は16才〜18才の3年間、この浜松で過ごし成長していった。その後、松下家から退職金をもらい尾張へ帰った。そして織田信長と出会い織田家中で出世をはたし、ついには天下人となった。 |
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