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京都上賀茂神社の流れをくむ神社。賀茂真淵とはゆかりがあり、父はこの神社の神官であった。祭神は鴨建角身命と別雷神の二神。境内には真淵を祀る縣居翁霊社の旧跡がある。
賀茂真淵は江戸時代中期の国学者・歌人で、生家の岡部家は賀茂神社の神官を代々担ってきた家柄であった。この土地は古くから岡部郷といわれていた。
真淵の没後、浜松藩主だった水野忠邦によって賀茂神社から縣居(あがたい)神社に遷座された。縣居神社は、賀茂神社の西の丘の上にある。
「そのかみの事をしとへばーーー」(長歌)
は賀茂神社の成り立ちから移り変わりを歌い上げ、それらのもろもろのことをこの古い松が知っているだろうと結んでいる。
<荷田春満(かだのあずままろ)>
賀茂真淵の師。国学の四大人(しうし)の一人。国学の初祖として、日本書紀、万葉集研究の基礎を作った。この歌碑の「みづ垣や其神山のーーー」は春満がこの神社にお詣りして詠んだ歌。
<保存樹林>
賀茂神社周辺の斜面緑地は、東海道線、新幹線の車窓から望まれ、街の中心部にあって貴重な緑となっている。マツ、シイ、ヤマモモ、ミミズバイなどの郷土木で構成されており、浜松市の保存樹林になっている。 |
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<縣居翁霊社>
賀茂真淵は、江戸日本橋浜町の住居に住み、その地を縣居(田舎の住まい)と呼び、縣居翁と言われた。明和6年(1769)10月30日73歳没。遠州有玉の国学者高林方朗(みちあきら)は、真淵50年霊祭後、天保の改革で有名な浜松城主、時の江戸城西丸老中水野忠邦にはたらきかけ、碑石と銀10枚を拝領、募金に奔走し大飢饉のさなか、浄財80両余を集め天保10年(1839)東伊場賀茂神社境内に霊社を建立した。
大正13年(1924)神社移転に伴い、現縣居神社に設置された。忠邦は方朗の国学の弟子にあたる。町内の県居(あがたい)小学校も真淵の遺徳を受け継いで名付けられた。 |
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