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御祭神宗良親王(後醍醐天皇第四皇子・宮内庁調)は、今より約650年前の南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地を本拠に50余年の間、吉野朝のために活躍した。
その間、遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、上野、美濃等に軍を進め、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称され、晩年再びこの地を訪ねられ元中2年8月10日73歳にて薨去せられた。御墓は本殿背後に西に向かってたてられており宮内庁所管地である。
明治元年、明治天皇より当宮創立の勅旨が仰出され、明治5年(1872)2月12日御鎮座、明治6年(1873)6月9日勅裁を以て官幣中社に列せられた。
親王は武のみならず和歌に秀で、その苦難な生涯の中であっても歌集「李花集」をのこされ、また、準勅選和歌集「新葉和歌集」の編纂など文化の面でも功績をのこした。
親王のどんな逆境に陥っても不撓不屈初志を貫き、希望を捨てずひたすら正義のために一生を捧げられた精神・遺徳は多くの人達に慕われ、学問・心願成就・開運の神として信仰され尊ばれている。
・祭神御墓
本殿背後にあり域内六百坪は石垣をもって囲み、寛保第二壬戌歳八月、信州伊那郡阿島の住人知久監物源頼人奉納の宝筐院塔が建立されている。
・摂社 井伊社
御祭神在世中宗良親王、御子尹良親王を輔佐し忠勤を励んだ地元豪族従四位井伊介道政、正四位井伊新介高顕二柱が祀られている。 |
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なげかじな 忍ぶばかりの 思い出は 身の昔にも 有りしものなり
人生は、思うようにはなかなかいかないものです。喜びと希望に満ちた一日もどうかすると一変に逆転してしまうものです。そうなると全てのものが狂ってしまって、自分一人だけが除け者になってしまったような、人生を歩かされているような失意と屈辱の毎日で、どうしてこのようについていないだろうかと沈みがちになります。辛い悲しい毎日です。だからといって嘆き悲しむでないぞ、天皇陛下の御子と生まれ普通なら何一つ不満のないと思われがちな私だって、否と言う程味わって、しみじみと体験させられたことで、よくあなたの気持ちは充分にわかっていることですよ、私もそれを乗り越えて来たではありませんか。
時分だけがと思わないで頑張って生きて下さい。 |
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