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縣居(あがたい)神社の創立は天保10年浜松藩主水野忠邦をはじめ、郷土の国学者高林方郎等の協力に依って、現在の賀茂神社境内(静岡県浜松市東伊場)に「縣居翁霊社」として祀られた。その学風は本居宣長をはじめとして三百余名の門人を通じて全国に及び、学問の守護神、学徳成就の守り神として崇敬されている。
大正9年(1920)現地に移転したが、戦火を受け、昭和59年(1984)に再建された。隣には賀茂真淵の多くの業績を紹介する賀茂真淵記念館がある。 |
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<縣居翁霊社>(あがたいおうれいしゃ)
賀茂真淵は、江戸日本橋浜町の住居に住み、その地を縣居(田舎の住まい)と呼び、縣居翁と言われた。明和6年(1769)10月30日73歳没。遠州有玉の国学者高林方朗(みちあきら)は、真淵50年霊祭後、天保の改革で有名な浜松城主、時の江戸城西丸老中水野忠邦にはたらきかけ、碑石と銀10枚を拝領、募金に奔走し大飢饉のさなか、浄財80両余を集め天保10年(1839)東伊場賀茂神社境内に霊社を建立した。
大正13年(1924)神社移転に伴い、この場所に設置された。忠邦は方朗の国学の弟子にあたる。町内の県居(あがたい)小学校も真淵の遺徳を受け継いで名付けられた。
裏:天保発巳八月末学 領主侍従 源朝臣忠邦書 |
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もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花
もろこし(昔の中国)の人にも見せたいほどの
吉野の爛漫と咲き誇る桜の美しさ
真淵は67歳の2月、江戸から大和へ旅に出て、奈良を経て吉野に足を伸ばした。この歌は「桜の詞」の末尾に記されてる歌です。本居宣長の
「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
の歌があり、真淵の心を受け継いで詠っている。
大和旅行の帰途、伊勢神宮からの戻りに、本居宣長に接し教えを説いた。これが有名な「松坂の一夜」として師弟の心が広く伝えられている。67歳の真淵と30歳あまりの宣長。二人が逢ったのは生涯この一度だけです。その後文通による交流は真淵が亡くなるまで行われた。 |
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大御田の みなわもひちも かきたれて とるや早苗は わか君のため
田んぼのみなわ(水泡)もひじ(どろ)もかきたれて(泥にまみれて)とるや早苗(さなえを植える)はわが君のため
真淵51歳の作品で、「わが君のため」の意味は、天皇、徳川将軍、お百姓さん、愛しい人など諸説ある。(昔は濁点音を入れないのでひじはひち、わがはわかとなる。)
賀茂真淵は、「万葉集」等の古典研究に生涯を捧げ、万葉派歌人の先駆者として千首余り和歌を遺し、門弟も本居宣長など三百人をこえ、女性の弟子も多数いたとのことです。
この和歌は昭和17年(1942)制定の愛国百人一首に選定され、石碑は昭和18年(1943)に浜松翼賛文化協会により建立された。
戦争による米軍戦闘機の機銃弾痕がこの碑の裏面に残っている。 |