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筥崎宮(はこざきぐう)は醍醐天皇の延長元年(923)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。宇佐(大分)・岩清水(京都)の八幡宮と共に日本の三大八幡宮として朝野の崇敬あつく、
特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰を集めた。
文永11年(1274)の元寇の際には社殿を焼かれたほか、何度かの火災に見舞われたが、天文15年(1546)大内義隆により現在の本殿と拝殿が、文禄3年(1594)には小早川隆景により楼門が再建され、いずれも国の重要文化財に指定された。
なお、平安時代中期(921)に醍醐天皇が「敵国降伏」の宸翰(しんかん)を賜わされそれを揚げる楼門は伏敵門として有名である。 |
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<敵国降伏のいわれ>
筥崎宮楼門に掲げられている「敵国降伏」とは、亀山上皇が納められた宸筆(天皇の自筆)を模写拡大したものです。
その意味は、武力で相手を敵を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら靡(なび)き降伏するという王道である我が国のあり方を説いている。 |
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<唐船塔>
謡曲「唐船」は、日本に捕われた唐人祖慶官人(そけいかんにん)が箱崎殿(筥崎宮大宮司)に仕え、日本人妻との間に2人の子をなして平和に暮らしていた。
やがて唐土に残した子供二人が迎えに来たので箱崎殿はこれを憐み日本で生まれた子も連れて帰ることを許した。そこで親子共々喜んで帰ったが、夫婦、母子別れの悲劇もからまった物語である。迎えに来た子が、父がもし死んでいたら建てようと持ってきた供養塔が、この塔といわれている。
歌は聖福寺の画僧仙腰a尚の作で、
「箱崎のいそべの千鳥親と子と なきにしこえをのこす唐船」
又祖慶官人と妻とが別れる時に腰かけて名残を惜しんだといわれる一対の石を「夫婦石」といっている。 |
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<蒙古軍船碇石>
文永11年(1274)10月20日 蒙古軍3万は、900隻の艦船に乗って博多に迫り、 終日わが軍と激戦を交え、本宮も兵火によって、焼失したのであったが、翌21日朝には、
意外にも湾内から姿を消してしまった。
世上これは神風によるものだという。
古来博多附近には蒙古軍船の碇石と称するものが十数本あり、肥前から壱岐にかけても5本ほどあって、 いずれも海中から引揚げられたものであるが、場所がら歴史的記念物であるとして珍重されてきた。
この碇石は博多港中央波止場附近の海中から引揚られた6本中の1本であって、石質は赭色(しゃしょく)凝灰岩である。 この種の石材は蒙古軍の造船地であった朝鮮全羅南道興南方の天冠山に求めることができる。 |