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この地には貞観2年(860)に慈覚大師円仁によって開山された赤神山日積寺永禅院という寺院があった(縁起による)。その後、明治3年(「1870)に赤神神社となった。
五社堂は標高180mのところに同形式の五棟の社殿が並び建っている。現在の五社堂は宝永6年(1709)に造営されたものです。(平成10〜13年に大修理)。
五社といって、五柱の神が並び祀られている。五社ともみな萱苔きで、その様式はいまのものとは違い、古い時代を思わせる。古い棟札に、建武2年(1335)、阿部、季、応安5年(1372)に高季が修理を加えたとあった。
五社堂へ登る石段は鬼が積んだ999段の石段と伝えられており、「男鹿のナマハゲ」の由来の一つともなっている。石段の先に続く道は本山(ほんざん)から真山(しんざん)を経由し、真山神社まで至る。全長約11qのその道はかつて山伏などが修行をした修験の道であった。現在でも「お山かけ」と呼ばれ、人気の登山ルートになっている。
五社堂5棟は国の重要文化財(建造物)に指定されている。 |
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<昔ばなし「999段の石段」>
中国の漢の時代、武帝は不老不死の薬草を求め五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた。五匹のコウモリは鬼に変身して武帝のために働いたが、ある日「一日だけ休みを下さい」と武帝に頼み、正月15日だけの休みをもらい村里に降りて作物や家畜、村の娘たちまでさらい、あばれまわった。
困り果てた村人は武帝に「毎年ひとりずつの娘を差し出すかわりに、一番どりが鳴く前のひと晩で、鬼たちに海辺から山頂にある五社堂まで千段の石段を築かせてくれ。これができなかったら鬼を再び村に降ろさないでほしい」とお願いした。
ひと晩で千段は無理と考えた村人だったが、鬼たちはどんどん石段を積み上げていった。
あわてた村人は、鬼が999段まで積み上げたところで、アマノジャクに「コケコッコ」と一番どりの鳴き声のまねをさせた。
鬼たちは驚き、怒り、そばに生えていた千年杉を引き抜き、まっさかさまに大地に突き刺して山に帰って行き、二度と村へは降りてこなかった。 |
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<五社堂境内地>
周囲を土塁で囲まれており、その中に五社堂、姿見の井戸、御手洗の池が残っている。江戸時代の絵図などによると、五社堂の前には読経する所である長床をはじめ、境内地には、中門、熊野堂、毘沙門堂などがあったころが知られ、今も建物の礎石や石だたみが残っており、貴重な宗教遺跡である。 |
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<姿見の井戸>
菅江真澄「男鹿遊覧記」の記述によると「坂を遙かに登ると、姿見の井戸がある。この水鏡が曇り、真個の形が写らない人は、命が長くないと占われる。」とある。
また鈴木重孝編著本キヌブルイによると「弘法大師加持の御供水といい三尺余の丸石の井なり、深さ一丈余。井水に姿を写し見えざれば、三年の中に没すという清水なり。登山の男女嗽をなす。」と記されている。
<菅江真澄の道>
文化元年(1804)8月26日小浜から門前に入り、赤神山の由来や伝説を真澄は「男鹿の秋風」の中に、次のように記述している。
門前の浦に入った。袖垣に着物を干しかけてある。小橋を渡ると萱ぶきの堂がある。なにが祭られているのか。飽海郡落伏寺(山形県遊佐町)、陸奥の黒石寺(岩手県水沢市)などのように、自然石をたたんで御坂としていた。これも、一夜のうちに鬼が集まって築いたという物語がある。
伝え聞くところによると景行天皇の御代、庚長10年に、近江の竹生島と同じくわき出た山という。紀伊の国(和歌山県)熊野の新宮、本宮になぞらえ、金剛、胎蔵ふたつの峰として、いま真山、本山という。
円仁(慈覚大師)が仁明帝の承和4年(837)のころ唐にわたり、文徳帝の仁寿の年(851〜854)この山で修行され、天台の仏法を行い、赤神山日積寺永禅院といったが、近世になって真言宗に改宗したという。
その昔には自寂院、選壽院、印象印、円月院、照光院、泉光院など多くの寺々があったが、今は吉祥院、長楽寺だけ残っている。
大門の仁王は運慶の作と伝えられている。楼の大鐘は明徳3年(1392)に鋳たものである。多宝塔は元徳3年(1331)阿倍高季が建てた。食堂はいかめしく、はすの生えた池の面に半ば差し出て建てられ、中島に弁財天の小さな祠があり、松が生いている風情はことにおもしろい。坂をはるばる登ると姿見の井戸がある。この水鏡がくもって、姿がぼんやり映った人は命が長くないという占いがあるという。またこの山に、500人もの童をつれ、乱をのがれて不老不死の薬を採りに来たという、秦の徐福の塚というものがある。 |