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<瑠璃光寺>
大内家筆頭家老陶氏(陶弘房)の菩提寺で、本尊は陶弘房念持仏の薬師如来である。陶氏は大内家筆頭家老で、代々周防国の守護代をつとめた名門の家柄である。この寺は、文明3年(1471)山口市の奥地仁保の地に創建されたものです。当寺は中国三山の一つと言われ、長門の大寧寺、周防の龍文寺と共に江戸末期迄、西日本の僧録司(禅宗の統括、人事)の責務を果たした名古刹で修行僧も沢山いた。
また代々名僧を輩出し、九州佐賀藩主の菩提寺高傳寺を初めとして県内外に三十余ヶ寺の末寺を有していた。
この地には大内義弘の菩提寺香積寺があったが解体されて、萩に移ったため、その跡地に元禄3年瑠璃光寺が移り今日に至り、日本一古い正法眼蔵や各種の寺宝を残している。
また出雲の一畑薬師(目の仏様)山口分院、四国の金比羅様(道中安全)と我が身を切ってその人の身代わりとなられる見切地蔵様等がある。
大本山 永平寺(福井) 総持寺(横浜) 曹洞宗 保寧山 瑠璃光寺 |
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<瑠璃光寺五重塔>国宝
この塔は、嘉吉2年(1442)に建立されたもので室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに大内氏隆盛時の文化を示す遺構として意義深いものである。
高さは31.2mで檜皮葺独特の軽快さを見せており、軒の出は深くなっている。塔の身部は上層にゆくにつれて思い切って間をつめているので、塔の胴部が細く見えてすっきりした感じである。これに対して初重の丈が高く、柱が太く二重目には縁匂欄があるので安定感が強い。鎌倉時代から和様、禅宗樣、大仏樣建築様式が行われているが、この塔は大体和様を主体としていて、わずか一部に禅宗樣の手法が見られる。室町時代のものとしては、装飾の少ない雄健なものである。この塔は大内義弘の菩提を弔うためその弟の盛見がこの地にあった香積寺の境内に建立したものであるが、江戸時代の初めに香積寺は萩に移り、その跡に瑠璃光寺が移ってきた。その後、瑠璃光寺五重塔と呼ばれている。
五重塔は九輪の尖端まで31.2mあり各層軒が広く張出し、檜皮葺の屋根の勾配は緩くなっている。全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは法隆寺と醍醐寺にある五重塔と並んで日本三名塔の一つに数えられている。 |
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<梆>(ほう)
魚の形をしているので魚板ともいう。約550年前のもので、食事の際、準備の出来たことを各部屋に知らせるため此を叩き、沢山の雲水はお勝手に集合して食事をした。
<知足の手水鉢>(ちそくのちょうずばち)
手水鉢の四方の字と真中の口とを結んで字を考えて下さい。吾唯足知(われただたるをしる)となる。意味は、現実に感謝し不平不満を云わず、より前進を誓う言葉ではないでしょうか。
この言葉は、お釈迦様が涅槃に入られる前、最後の説法「佛遺教経」の中に言われた言葉で、この手水鉢は禅宗の寺にはよく使われている。
特に、石庭で有名な京都の龍安寺に置かれている手水鉢は、水戸光圀が寄進されたものです。 |
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本堂の前には大きな杓子(しゃもじ)擂木(すりこぎ)があるが、これは我が身を磨り減らし、人を救うという仏心を象徴するものである。 |