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この月見堂は伝教大師(最澄)が建てた広拯院(こうじょういん)の跡地ともいわれている。伝教大師は東国への布教を計画して弘仁8年(817)東山道を下った。美濃の坂本から神坂峠を越えて阿智駅までの道程は予想以上の困難なものであることを体験、しかもその道中の長いのに難渋し、峠の両側に広済・広拯の二つの院(布施屋)を設けて旅人の便に供した。
月見堂は通称で、本来は薬師堂であり薬師如来を祀ってある。眺望がよく、かつて文人等がここで中秋の名月を賞した記録が残っている。
本尊は出世薬師と申し、金売吉次の守本尊で吉次はこの地に金鉱を発見し、巨満の富を得て、当山の長者職となった。県歌(長野県歌)に「尋ねまほしき園原や旅の宿り」とはこの寺を歌っている。
<謡曲「木賊」と帚木>
後鳥羽上皇(1180〜1239)のとき撰ばれた新古今和歌集所載の「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな」の一首をヒントに父子再会をテーマとして構成されているのが謡曲「木賊(とくさ)」で、木賊は信濃の名産として、かつては朝廷に献上され、その木賊刈は、この地方の風物詩としても知られていた。
帚木(ははきぎ)はホウキ草のことだが、伝説では園原の炭焼き喜藤次に嫁してきた京都の在原の息女各女姫が夕空を眺め遠く都の母を懐かしんでいると、母が手招きをする姿が見えるので駆け寄ってみると帚木の風に揺れる姿だったといわれ、それ以来「母木木」と呼んだという。 |
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