|
|
|
|
|
|
巨獄山曹源寺は曹洞宗に属し、天正16年(1588)に和田倉(千代田区)に開かれ、のち湯島天神に移り、明暦の大火(1657)の後、現在地に移転したと伝える。当寺の通称を「かっぱ寺」という。
伝承によると文化年間(1804〜17)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。
この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。そして、曹源寺門前の道を「合羽橋通り」と呼ぶようになった。現在、新堀川は「合羽橋道具街通り」となっている。
当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓と伝える石碑があり「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。 |
|
|
|
|
|
<旧松葉町>
この付近は元禄11年(1698)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれに伴って新寺町と呼ばれるようになった。
本町は、明治2年(1869)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
町内に「河童大明神」で知られる曹源寺がある。昔、このあたりは土地が低いため雨が降るとたちまち水が出て人々は苦しんでいた。雨合羽商の合羽川太郎は、これを見てだまっていられず排水のための堀割を作ろうとしたが工事は思うように進まない。そこにかつて川太郎に助けられたという河童が出てきて川太郎の工事を手伝い、困難な工事をまたたくまに完成させたという。このようなことから曹源寺には川太郎の墓とともに河童が大明神としてまつられたという。 |
|