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赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。
寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治本の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。
築地塀が風情を醸し出している観音寺である。 |
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本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種字(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む。 |
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