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<浅草寺と浅草>
『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628年)に、檜前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁撈中、一体の仏像を投網の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依したという。これが浅草寺の草創である。 |
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浅草寺は、628年創建の都内最古の寺である。隅田川からあがった観音様を安置するために建立した観音堂が開基となっている。源頼朝が田園36町歩を寄進したため、大寺院となる。江戸時代には幕府の祈願所として栄え、下町文化の中心的存在になった。
太平洋戦争で二天門と伝法院本坊以外の建物が焼けた。戦後、本堂・雷門・五重塔・宝蔵門が再建された。浅草の観音様として広く多くの人々に慕われている。
浅草寺の御本尊は「聖(しょう)観世音菩薩」です。お参りの時は合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
表参道には終日、人通りが絶えない。正月三が日の参詣者は百数十万人にのぼる。全国の小中高校生の修学旅行や外国人の参詣客、観光客も多い。 |
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<宝蔵門>
天慶5年(942)武蔵守平公雅が建立したとされる旧仁王門の再建で、現在の門は浅草寺の山門(什宝物収蔵)になっている。中央の提灯は「小舟町」と書かれ、日本橋小舟町の人たちによる寄進である。 |
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<旧浅草雷門>
昭和9年(1934)、浅草雷門はそれまであった浅草材木町、浅草並木町、浅草茶屋町など7ヵ町が合わさって1丁目ができ、浅草北仲町、浅草馬場町、浅草花川戸、浅草公園地など6ヵ町が2丁目となり誕生した。この付近は浅草寺があったため早くから開け、すでに江戸時代初期には門前町として栄えていた。
町名は、浅草寺の総門である「雷門」にちなんでつけられた。「雷門」の創建は大変古く、天慶5年(942)といわれている。門の右側には風神像が、左側には雷神像が力強く立っている。この2神像があることから「風雷神門」といわれていたが、いつしか「雷門」と呼ばれるようになった。
「風の神 雷門に 居候」
と江戸の庶民は親しみをこめて川柳に歌った。 |
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<五重塔>
そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。
浅草五重塔は、天慶5年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年3月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂に向かって右側にあった。)
以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年(1973)に現在の五重塔を再建するに至った。地上からの高さは53mある。 |
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<銅造宝篋印塔>
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。
本宝篋印塔は、高さ約8m。西村和泉守藤原政時が宝暦11年(1762)に鋳造した。西村和泉守は、代々和泉守を名乗る江戸を代表する鋳物師で、多くの作例を残している。なかでも本塔は区内に現存する銅造宝篋印塔の中でも最大のもので、近世中期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品の一つである。
また、本塔の造立に際しては、台座に刻まれた銘文から、様々な職種や地域からの寄進が確認でき、浅草寺に対する信仰の広がりが示される。
安政2年(1855)の地震で本塔は被災したが、明治40年(1907)に日露戦争凱旋記念として修復されたもので、区の歴史を知る上でも貴重である。 |
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<大わらじ>
この大わらじは、山形県村山市の奉賛会によって奉納されている。延べ人員800人、一ヶ月をかけて制作されたものである。藁2500sを要し、大変な労力が必要で、まさに信心の結晶ろいえる。昭和16年(1941)の奉納を最初に、宝蔵門再建後は、約10年に一度作られている。全長は4.5m。
わらじは、仁王様の力を表し、「この様な大きなわらじを履くものが、この寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。また、健脚を祈ってこのわらじに触れていく人もいる。 |
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<時の鐘>
江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらに浅草寺や寛永寺(上野山内)など、9個所でも時を知らせた。
鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m。鐘銘によれば撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、5代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句
花の雲 鐘は上野か 浅草か
は、あまりにも著名である。
昭和20年3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年5月再建されたものである。 |
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東京スカイツリーができてから、境内からよく見ることができる。以前の比べると景観が随分変わったものだ。 |