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昌清寺(しょうせいじ)は、浄土宗嶺松山昌清寺と称され、元和元年(1615)の創建である。開祖は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母である。父二代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。しかし兄家光の乳母春日局が家康に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿河城主となったが、なお大坂城主を要請したため家光の怒りにふれ、領地は没収され、高崎城に幽閉され自害した。寛永10年(1633)忠長28歳であった。
忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせた。 |
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