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浄土宗の寺院で、慶長期の創建と寺伝にある。宝永年間(1704ー1711)に当地に移り、無縁山法界寺と称したが、その後、無縁寺と講安寺に分かれ、無縁坂の由来ともなっている。
山門は簡素な冠木門で屋根は付かない。本堂は外壁を漆喰で何度も塗りこんだ土蔵造りで、屋根は寄棟造りの錣葺で棟を高くしてある。この造りは火事に悩まされた江戸の人々の防火建築の知恵である。寺には4代住職顕誉が防火の戒めの遺言(古文書)が保存されているが「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」とある。記録によれば元禄16年(1703)から27年間に18回も寺境まで火が来たという。
なお本寺には、11代将軍徳川家斉の側室お美代の方(溶姫の実母)が明治5年(77歳)まで45年間隠棲したという。
<講安寺本堂と庫裡(裡)>(区指定有形文化財)
本堂は、社寺建築でありながら土蔵造りである。寺伝にいう宝永5年(1708)から、かりに寛政元年(1789)頃にさがっての建立であったとしても、江戸の町で普及した土蔵造りという防火建築が、多くの災害にあい、また、建て替えられるという歴史的推移のなかで、残ることのできたことは、貴重である。
特に、寺院の住居部分は、改築や新築が頻繁で、昔の姿で残るのは極めて珍しい。ここは幕末(寄進札に文久元年(1861)のものとはいえ、客殿、庫裡が残り、江戸期の形式をよく保存している。さらに、寺門は戦後再建されたものであるが、旧形式が保たれている。
寺門、本堂、客殿や庫裡に至るすべてが旧規をよく保存し、まれにみる第一級の文化財といえよう。 |
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