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<高岡大仏>
高岡大仏(銅製阿弥陀如来座像)は、坂下町極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、延亭2年(1745)、木造金色の仏像を建立したのが始まりである。しかし、その像は文政4年(1821)に焼失。その後、天保12年(1841)に再興されたが、これもまた明治33年(1900)の大火で焼失した。
現在の大仏は、篤信家の松本宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治40年(1907)に造営事業が着手された。その後、中川原町の荻布宗四郎らの協力により、20有余年の歳月を経て昭和8年(1933)に全工程を完了、5月に開眼式が行われた。昭和55年(1980)に11m後ろへ下がった現在の場所へ移転・補修された。
原型は中野双山。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色に至る全ての工程を高岡の工人・職人達の手で行った記念すべき大作である。
昭和33年(1958)に建載された円輪光背には、阿弥陀仏の仏徳を一字で表現する「キリーク」という梵字が頂点に配されており、大円輪の光背がそびえる大仏尊は世に珍しく、奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている。
<時鐘>
江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので町民に時刻を知らせる必要があった。それは規則的な生活を営み、協同社会の秩序を保ち、生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。
当寺の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の認可をえたところ、金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年(1804)に出来上がった。そうして9月11日午前6時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく鐘に割れ目が生じ改鋳にせまれれた。
坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけることを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励などして文化3年(1806)7月遂に見事な大鐘を完成した。
これがこの時鐘で、口径112糎(p)・重量2250瓩(s)あり、鐘面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。
以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治12年(1879)以降数度の火災により移転され、その後大佛寺に寄付されて今日に到っている。 |
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