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大寧寺(大寧護国禅寺)は、室町時代に西国の覇者として山口を中心に栄華を極めた大内氏の終焉の地でもある曹洞宗の名刹です。
大寧寺は、応永17年(1410)守護代鷲頭弘忠が創建したと伝えられる。境内の主たる史跡としては、萩藩重臣の墓地、盤石橋等が挙げられる。
境内西側南斜面から山麓にかけて、大内義隆家臣と萩藩上級武家層の墓群約250基があり、寺格の高い歴史的由緒をもつ大寧寺に重臣の藩士たちが、こぞって分骨したものと思われる。墓石の態様も、自然石塔板碑、五輪塔等多様であり、墓石様式を知る上でも価値がある。
境内の前を流れる大寧寺川には、盤石橋虎渓橋がかかっており、特に盤石橋は、寛文8年(1668)に架設され、大小の石を組み合わせた橋梁、及び橋脚からなる。長さ約13m、高さ約3mの小橋であるが、造形的には素晴らしく、山口県(防長)三奇橋に数えられている。 |
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天文20年(1551)に連綿として栄えた大内義隆は、重臣陶隆房の謀反により山口を追われ、大内氏の香華寺である大寧寺に逃れ13世異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚に示戒を請い、重臣と共に自刃。大内家は31代にして断絶した。主従の墓は裏山遊仙窟に眠る。
<上杉憲実の終焉地>
足利幕府の管領であった上杉憲実(のりざね)は、幕府内の政争に疲れ、諸国行脚の後、享徳元年(1457)当寺4世竹居正猷(ちっきょしょうゆう)和尚の弟子となり、安居参禅の晩年を送り、寛政7年(1466))に入寂。墓は史跡墓地群の中にある。
<山門跡>
天正年間(1570)年代)毛利家永代家老益田藤兼公が当寺15世関翁殊門禅師に帰依し山門を寄進、のち寛永17年野火によって焼失した山門は延宝5年(1677)に益田元尭公によって再建された。
桁行5間、梁行2間5尺、桧皮茸入母屋重層の荘厳な山門であったが、明治以後、藩の庇護も疎くなり維持困難を極めて明治末期に倒壊し今日に至っている。 |
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