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京都百万遍知恩院を本山とする浄土宗寺院です。足利尊氏・直義兄弟が各国ごとに一寺を選び、安国寺と名付けた寺院のひとつ。上野国(現群馬県)の安国寺がその起こりと伝えます。天正18年(1590)頃、のちの彦根藩初代藩主・井伊直政が箕輪(現群馬県箕郷町)の城主であったとき、正室の東梅院が両親の菩提のために再興された。
慶長3年(1598)直政が高崎城主となると安国寺も高崎(現群馬県高崎市)に移転、関ヶ原合戦後の同6年、直政の近江佐和山への転封にともなって、佐和山の麓に移転した。彦根城築城が開始された同8年以降、現在の地に移り、安国寺から宗安寺へと寺号を変えた。
元禄14年(1701)の元禄の大火で表門(赤門)を除いて全焼、翌年に長浜城殿舎を拝領して本堂を再建したという。本尊・阿弥陀如来像(滋賀県指定文化財)は、像内に文永7年(1270)の奥書のある経典などが収納され、像もこの頃の制作と推定される。
<権現忌>
宗安寺は、元和2年(1616)の徳川家康没後、彦根藩における家康の位牌安置所となり、大々的に法要が執り行われた。代々藩主も、彦根在中のときは自らが参詣している。
<朝鮮通信使の宿泊>
朝鮮通信使は、朝鮮国王が日本の武家政権へ、つまり江戸時代には徳川幕府へ派遣した公式の外交使節です。彦根は、通信使の来日ごとにその宿泊地にあてられていた。大使節団(数百人)であったため、宿泊施設はいくつかに分散されたが、宗安寺は、特に重要な三使をはじめとする上官の宿泊所となった。
<赤門と黒門>
宗安寺の表門は、朱塗の門であることから、「赤門」と呼ばれて親しまれている。石田三成が佐和山城表門を移築したと伝えられ、馬に乗って駆け込めるように敷居がない。元禄時代の彦根大火にも焼けずに残ったが、平成8年(1996)に街路拡張整備工事により、西へ約5.5m移動した。
黒門は、朝鮮通信使の宿泊の際、勝手口として使用されたという。老朽化していたため、新たに復原した。
<鬼瓦保存>
宗安寺本堂は彦根大火っで焼失の後、長浜城御殿を拝領し、元禄15年(1702)に再建された。長年、大改修大屋根工事において、大役を終えて降ろされたものである。記念のため、永く後世に継承すべく安置したものである。(高さ2.6m・横2.5m 現在の鬼瓦も同じ大きさの物である)三つ葉葵の紋は、横の中央に上げられていた、旧避雷針を支えていたものである。 |
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