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静岡市の北西にある賎機山の山麓にあり、臨済宗妙心寺派の禅寺です。今川氏親が、出家した子の義元のために創建したもので、始め善得院と号していた。その後、義元の兄、氏輝が善得院に葬られると臨済寺と改めた。このとき、京都妙心寺の大休宗休が招かれて開山となり、弟子の太原崇孚(雪斎)が2代目住職となった。方丈は今までに2回戦火にあい、1度目は永禄11年(1568)武田信玄により焼失し、元亀3年(1572)正親町天皇の勅命によって信玄が再建、2度目は天正10年(1582)徳川家康により焼失同年8月正親町天皇御内令により家康が再建したものが今日みる伽藍である。
雪斎長老(せっさい ちょうろう)は事実上の当山開祖で清見寺中興の祖であります。明応5年(1490)駿河国庵原に生まれ父は今川氏の被官、庵原左衛門尉、母は興津氏で、駿河国富士郡なる善得寺の琴渓舜(きんけいしゅん)禅師に就いて得度した。京都東山の建仁寺におもむき、苦修18年、後、妙心寺の大休宗休禅師に参じ大悟して自ら太原宗孚(たいげんそうふ)と称した。
雪斎は兵法に精しく、今川家の執権職として機略を振るい、駿河・遠州・三河の大守として今川義元が東海に勇を振るったのも雪斎参画の功が多かった。
竹千代(後の徳川家康)は、8歳で人質として臨済寺に入った。雪斎につき字を習い、書史を読み兵書を学んだ。実に竹千代の人質は12年の永きにわたった。後年、家康が天下を平治した300年の太平の基業は、この幼時の雪斎の感化によっている点も見逃せない。
現在、本堂(国重要文化財指定)のほか、座禅堂、庫裡、書院があるが、専門道場として各地より修行僧の掛錫するもの多く規矩整然たる叢林としての日常が送られている。雲水の修行のため拝観はできない。(説明文より)
「竹千代(家康)御手習之間」、「一休和尚書(佛道)」、「徳川慶喜書」などがある。境内墓地最上段には、今川氏輝、雪斎長老の墓がある。 |
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