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<了仙寺>
国指定史跡 法順山了仙寺 日蓮宗
寛永12年(1635)創建 開山日朝
第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検閲を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
本堂南側の墓域の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四代伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である。(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられている。
嘉永7年(安政元年・1854)3月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。
ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された、これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休息所となった。
なお、3段目の駕篭は、唐人お吉が領事館通いに使った駕篭である。 |
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<遊歩権>
下田条約の中でアメリカ人に認められた権利です。遊歩権、遊んで歩く権利、しなわち街中を自由に歩き、下田の町民と交流することがアメリカ人に公式に認められたのが下田条約です。これにより、下田は日本の民間異文化交流が正式に始まった場所となった。
<日本最初の洋楽のコンサート>
了仙寺は、ペリー艦隊の音楽隊による演奏会が行われた。これには、下田の一般の町民も見ることが許され、当日は了仙寺の境内。周辺が人で埋まったと言われている。一般に公開された演奏会は初めてのことで、これが日本で最初の西洋音楽のコンサートです。 |
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寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・金銅製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。
この洞窟は、今から約1300〜1400年程前、古墳時代に墓として利用されていたと考えられており、洞窟内より人骨とともに勾玉や水晶製の切子玉等の玉類、金銅製の腕輪や耳飾り等の装身具、土師器、須恵器が出土した。これらの遺物は死者とともに埋められた副葬品であり、その質や量からみてこの地域の有力者の墓と考えられている。了仙寺横穴に代表される洞窟や岩陰に死者を埋葬した遺跡は河津町や西伊豆町にもみられ、伊豆半島南部の古代の特徴を示していると考えられている。 |