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天平年中(729〜749)僧行基の開基と伝えられる。治歴2年(1066)火災にかかり本堂、五重塔などことごとく焼失した。当時の住職慶鑁和尚は、京都仁和寺の性信法親王に師事し、白河院を頼って復興を願い、金堂など七堂伽藍が再建された。官寺として末寺も百数ケ寺を数える備後備中安芸にわたる西国一の大寺となった。天仁元年(1108)から七帝御国忌の不断経修行が命じられたが、度々武士団の侵略にあって中断し、寺領も尾道浦一円を残すのみとなっていた。
永和年中(1375〜1379)再度火災にかかったが、備後の守護山名氏の手厚い外護によって至徳3年(1386)金堂(重文)が再建され、永享年中(1429〜1441)までの約60年間に、三重塔(重文)など伽藍が整えられた。
仁王門(県重文)は仁王像ともに室町時代末期の作。正面にさがら大藁草履は、健脚を願っての奉納とか。寺には多くの文化財が保存されている。真言宗西国寺派の総本山。
<西国寺金堂>
西国寺は行基菩薩の開基と伝える真言宗の巨刹。現在の堂塔の多くは南北朝期備後の守護山名一族によって再建されたものである。金堂は和様を基調に折衷様式の建物で、入母屋造の妻飾は二重梁大瓶束で屋根に重量感をもたせ、規模も壮大で手法上も全体より受ける感じは和様の風格が濃厚な堂々とした建物である。 |
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