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大泉寺は東林山と号す。天文12年(1746)徳川家康の母伝通院(於大の方)の創立にして俊恵蔵主を開基としている。
伝へ云ふ天文11年於大の方懐妊するや命により俊恵蔵主登城して持仏堂薬師如来宝前に於いて日々安産の祈祷を行ふ。天文12年12月26日家康誕生ありこれにより城の東北の一宇を草創し即ち城の持仏堂の薬師尊を本尊として十三仏一軸、紋付打敷幕桃灯等を寄進して大仙寺とした。
弘治2年6月24日今川義元並に松平元信(家康)より寄進状及び制札の下附があった。慶長6年(1602)2月10日徳川家康黒印五石を賜ひ此の時の書状により大仙寺を大泉寺と書したれば以来これに従ふ。
宝永5年正月境内に鎮守白山社を建立したれば今も現存する。享保2年(1719)本堂葺替し門内石階段を作る以後連綿し現在に到る。
しかるに太平洋戦争の為焼失し昔の影なし。本尊は木造薬師如来座(行基作と云う五寸八分)。尚境内当寺草創の際伝通院のお手植えする所と傳ふさつき、つつじ二株亦其の遺髪を埋めたといふ墳墓がある。さつき、つつじは己に古木したるもなほ初夏の候には幾多の花を点じ美観である。 |
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家康の生まれた翌年、1543年、その母於大(おだい)が、安産の祈願をした薬師如来を本尊として創建した寺です。墓地の一番高い所に於代の遺髪を埋めたという墓碑が建っている。
<於大>
享禄元年〜慶長7年(1528〜1602)徳川家康の生母。三河(愛知県)刈谷の城主・水野忠政の娘。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
家康の父、広忠のころの松平家は、今川方と結ばなければ生きていけず、織田方についた刈谷水野家出身の於大を離縁しなければならなかった。戦国の世の非情さを思い起こさせる。 |
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