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<大樹寺>
松平家(徳川将軍家の祖)、徳川将軍家の菩提寺で、1475年、松平四代親忠が、勢誉愚底上人を開山として建立した。
松平八代の墓、歴代将軍の位牌、家康73歳の時の木像などが祭られ、多宝塔(松平七代清康建立)は国の重要文化財に指定されている。また、山門、総門を通して、南方3qに岡崎城を望むことができる。 |
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<山門>
寛永18年(1641)三代将軍徳川家光の建立(愛知県指定文化財)。楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられている。釈迦三尊16羅漢を安置している。 |
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徳川家光が、家康十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から、山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備した。
時は移り、岡崎城は再建されたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに望む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。(眺望ライン(ビスタライン)と呼ばれている) |
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<大樹寺多宝塔(付棟札)>
多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二十塔のことである。
大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平七代清康により天文4年(1535)に建立された。
下層は方三間、総円柱、斗(ます)組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の塔身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
この多宝塔は上下層の釣り合いもよく、蟇股(かえるまた)や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。国指定重要文化財 |
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<松平八代墓>
松平氏の菩提寺であるこの寺に元和元年(1615)徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年には天領代官畔柳寿学が奉行となり現在の姿に整備された。
初代 |
親氏(生没年不詳) |
宝篋印塔 |
二代 |
泰親(生没年不詳) |
宝篋印塔 |
三代 |
信光(1404〜1488) |
宝篋印塔 |
四代 |
親忠(1431〜1501) |
五輪塔 |
五代 |
長親(1473〜1544) |
五輪塔 |
六代 |
信忠(1486〜1531) |
五輪塔 |
七代 |
清康(1511〜1535) |
五輪塔 |
八代 |
広忠(1526〜1549) |
無縫塔 |
大樹寺は、文明7年(1475)安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、松平家の菩提寺とした。長親の代には安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平家菩提寺となった。
元和2年家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後14代将軍家茂までの位牌が納められている。 |
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<大樹寺の土塀>
大樹寺小学校横の白壁は大樹寺の塔頭(境内にある小寺)であった善揚院と開花院のものであった。かつては南の総門まで続き「旗かけの松」をはじめ、大小の松が生い茂っていた。(昭和52年(1977)修復) |
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桶狭間の戦い(永禄3年(1560)で松平元康(徳川家康)は今川軍側であった。この戦いで敗れた松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、松平家の先祖の墓前で自害しようとした。しかし、住職の登誉に諭されて思い留まった。大樹寺は、歴史の分岐点でもある。 |