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<大御堂寺沿革>
大御堂寺は、通称野間大坊として親しまれている。
その歴史は古く、天武天皇(673〜86)の時代に始まり聖武天皇(723〜49)の時、行基菩薩が中興する。後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈った。承暦年間(1077〜81)に白河天皇の勅願時として、大御堂寺と称せられた。
後に源頼朝の父義朝の菩提を弔う為に建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王を奉安され、七号伽藍を造営する。そして、秀吉、家康の庇護を受けて発展する。現在、尾張地方隋一の祈願寺として信仰を集めている。 |
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<大御堂寺本堂>
鶴林山大御堂寺一山の根本堂。現在の建物は3度の火災などにより、宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建されたものである。本尊は平安時代作の『阿弥陀三尊像』(勢至菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩)。真言宗の開祖弘法大師、新義真言宗の開祖興教大師を祀っている。 |
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<源義朝の墓>
源義朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝、平家を滅ぼした源義経の父である。
平治元年(1160)の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、本拠地である関東地方へ落ち延びる途中、この地野間を治める家臣の長田忠致(おさだただむね)・影致(かげむね)親子のもとへ身を寄せた。
ところが、長田忠致・影致親子は裏切りの企てをする。義朝へ「どうぞ朝湯へお入りください。」と勧め、入浴中の裸の義朝を風呂場にて切りつけ命を奪った。武芸の達人であった義朝は「無念、我に木の太刀の一本でもあればむざむざ打たれはせん。」と言って絶命した。
後の世の人々が義朝の菩提を弔うため、その墓に花の代わりに木太刀を供える習わしとなる。いつしか、願いをかなえる武将源義朝として、人々が願いをしたためた木太刀を墓にうず高く供えるようになった。 |
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<大門>
建久元年(1190)、源頼朝が亡き父義朝の法要に伴い、境内の様々な伽藍を建立した際に創建された。 |
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<鐘楼堂>
鎌倉5代将軍藤原頼継の寄進した梵鐘が掲げてある。この中にある梵鐘は建長2年の銘があり、尾張地方最古の鐘として国重要文化財に指定されている。 |