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唐招提寺は天平宝字3年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建された。鑑真大和上は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意された。
井上靖の名作「天平の甍(いらか)」にもあるように、5度の失敗にも屈することなく来日してわが国に戒律を伝え、大和上の称号を賜った。その後、戒律を学ぶ場として、当寺が創立された。以来千二百五十年、律宗総本山としてその法灯を今に伝えている。金堂は代表的な天平建築です。
国宝17件、重要文化財200余件を数え、天平文化の大群落である。 |
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ここは奈良市五条町。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった千二百年前は、平城京右京五条二防に当たり、いわば首都の中心街区であった。天平宝字3年(759)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提ー仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺号として掲げる。別に建初律寺とも称するが、これは中国四分律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺ということである。今も日本律宗総本山として仰がれている。
開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧。聖武天皇の寵招授戒の師として来朝することになったが、天平勝宝6年(754)東大寺に到着するまで12年間、前後5回にに及ぶ難航海に失敗したにも拘わらず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明したほどである。
かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・孝謙天皇をはじめわが国の多くの高僧たちに授戒した。既に仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点睛(がりょうてんせい)の実を挙げたのは、まさに大和上の功績である・
東大寺戒壇院を退いて当寺を建立し、在すこと4年。天平宝字7年(763)5月6日、76歳をもって寺内に示寂した。(案内文の一部)
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