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法相宗大本山興福寺。天智天皇の時代に藤原鎌足を弔うために創建された。平安時代に藤原不比等によって現在地に移転する。その後、藤原氏の氏寺として、藤原氏とともに寺勢を拡大し、奈良時代には南都4大寺、平安時代には南都7大寺の1つとして大いに栄えた。
戦国時代以降は徐々に衰え、やがて北円堂、東金堂、食堂以外の伽藍を消失した。現存する建物のうち、北円堂、三重塔は鎌倉時代の作であるが、それ以外は室町以後のものである。「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されている。 |
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<興福寺五重塔>
塔は仏教の祖釈迦の舎利(遺骨)をおさめる墓標で、天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等の娘・光明皇后が建てる。その後、被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建された。国宝 |
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<興福寺南円堂>(重要文化財)
弘仁4年(813)に藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を願って創建。現在の建物は、寛保元年(1741)に立柱、本尊は不空羂索観音菩薩。西国三十三所観音霊場の第九番札所。(鎌倉時代、国宝) |
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<興福寺三重塔>
北円堂とともに興福寺最古の建物。鎌倉時代の建物(再建)だが、平安時代の建築様式を伝えている。国宝 |
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<興福寺北円堂>
藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)に建てられる。ここは平城京を一望できる場所だった。国宝 |
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興福寺の起源は、天智天皇8年(669)に中臣(藤原)鎌足の夫人鏡女王が、鎌足の病気平癒を願って建立した山背国、現在の京都市山科区にあった山階寺にある。その後、飛鳥に移されて廐坂寺、和銅3年(710)の平城京遷都に際して、鎌足の息子の不比等が左京三条七坊に移し、興福寺と称した。
やがて藤原師の興隆にともなって、我が国の宗教界はもとより政治、経済、社会、文化に大きな影響を及ぼした。長い歴史の中で度重なる罹災と復興を繰り返し、現在に至る。
和銅3年(710)から造営されたかつての伽藍は、平城京三条大路から少し北に控えて南大門が建ち、北に中門、中金堂、講堂、その左右前方に経蔵と鐘楼、また東、北、西の三方を僧房が囲んでいた。
さらに東側には南から五重塔、東金堂、食堂、盛殿、大炊殿が、西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建ち並んでいた。 |