|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<真言律宗活性山 般若寺>(西国薬師第3番・関西花の寺第17番札所)
奈良北山の名刹、般若寺は飛鳥時代に高句麗僧慧灌(えかん)によって開創され、そののち天平18年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定められた。
また平安時代は寛平7年(895)の頃、観賢僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたったという。ところが源平の争乱に際しては、治承4年(1180)平重衡(しげひら)の南都焼討にあい伽藍は全て灰燼に帰し、礎石のみが草むらに散在する悲運に見舞われた。 |
|
|
|
しかし、鎌倉時代に入って般若寺は不死鳥の如く再生する。荒廃の中からまず十三重大石塔が、名も無き民衆の信仰の結晶として再建され(建長5年頃)、続いて良恵(りょうえ)上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。さらに文永4年(1267)には叡尊(えいそん)上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。
それは同時に、境内に一隅に病舎を設けて孤独な病人を助けたり、布施行の大法要を営んで人生苦にうちひしがれた苦悩の衆生を済度するなど興法利生(正しい考えを興隆して社会に奉仕する)の寺をめざす復興でもあった。
その後、般若寺は室町戦国期の戦乱による衰微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながらも、常に自利利他(己れを高め他を助ける)の菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。(案内パンフより引用) |
|
|
|
|
|
秋を感じるために、奈良の通称コスモス寺「般若寺」へ行ってきました。夕方から天気は悪くなっていますが、昼間はしっかり晴れていました。小さい寺なのですが、たくさんのアマチュアカメラマンなどであふれていました。携帯で撮ったので見づらいかもしれませんが雰囲気だけでもと思いましてお送りします。(E.Mさんより) |