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<一切経堂> 毛利輝元寄進の経蔵
三井寺唯一の禅宗様建築です。もと山口県の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵で、慶長7年(1602)に戦国大名の毛利輝元によって移築された。外観の花頭窓や波形格子の弓欄間、内部を土間、鏡天井とするなど典型的な禅宗様の意匠でまとめている。
内部中央には、八角形の回転する輪蔵が据えられ、仏典類を網羅した一切経を収蔵している。塗りの経筥を納めた引き出し面より前に柱を立て、屋根の八方に破風を起こしているのは他に類例がなく、室町時代に遡る禅宗様経堂の古例として貴重である。(重要文化財) |
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<唐院大師堂>
唐院は、三井寺の開祖・智証大師の御廟として三井寺のなかでも最も清浄な聖域です。
その名称は、大師が唐よりもたらした経典・法具類を納めるのに清和天皇から御所の仁寿殿を下賜され、伝法潅頂の道場としたことに由来すると伝える。
現在の大師堂は、唐院の中心となる仏堂で、豊臣秀吉による文禄4年(1595)の闕所後、いち早く慶長3年(1598)に再建されている。宝形造檜皮葺の御廟で、堂内には国宝の智証大師坐像二体と重要文化財の黄不動尊立像の計三体の彫像が安置されている。(重要文化財) |
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<百体観音堂>(上左画像)
堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を、その左右に西国礼所の三十三観音像を二段に祀っている。右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置し、
合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれている。
<観月舞台>(上右画像)
舞台造の建物で、眼下には琵琶湖疏水と大津の町並みが広がる。古来より観月の名所として知られてきた。 |
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百体観音堂の前の手水舎。 |
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<金堂>
豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたものであり、三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っている。寺の本尊弥勒菩薩もここに安置されている。(国宝) |
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<村雲橋>
智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かれた。 大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、西に飛び去った。数日後、青竜寺から火災を鎮めてくれたことへの礼状が届いたのだという。以来、この橋は「ムラカリタツクモの橋」「村雲橋」と呼ばれるようになったのだと伝えられている。 |
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<毘沙門堂>
元和2年(1616)に三井寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立された。明治42年(1905)に三井寺南院に移され、さらに昭和31年(1956)の解体修理にともない現在地に再度移築された。内部には文様などが彩色で描かれており、桃山建築の系譜を受け継いでいる。
<弁慶の引摺り鐘>
世に「弁慶の引摺り鐘」として名高い大鐘。
伝説によると、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山の大ムカデを退治した功により、琵琶湖の龍神からもらい受けた鐘を三井寺に寄進したと伝えられている。
その後、三井寺が比叡山と争ったとき、比叡の荒法師・武蔵坊弁慶が三井寺に攻め入り、この鐘を奪って比叡山まで引摺り上げて撞いてみると「イノー、イノー」(帰りたい)と響いたので、そんなに三井寺に帰りたいのか」と谷底へ投げ捨て落としたという。その時のと思われる引摺った傷痕やヒビが残されている。
その後、この鐘は、三井寺に凶事が迫ったときには、前兆として鐘の表面に汗をかき。撞いても音を出さなかったといわれ、三井寺を鎮護する「霊鐘」として大切に伝えられてきた。 |
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三井寺は、正式名称を「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山である。境内に天智・天武・持統の三天皇の産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と称され、後に「三井寺」と通称されるようになった。
今日まで続く千二百年以上の歴史の中で、源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多困難に遭遇しきたが、今日に至っている。(画像提供: S.Y さん) |