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真言宗山階派(やましなは)の大本山で、平安中期の900年に醍醐天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔うために、胤子の母の実家である宮道家邸宅を寺に改めたのが始まりといわれる。
天皇の祖父に当たる藤原高藤の諡号をとって勧修寺(かじゅうじ)と名付けられ、のちに醍醐天皇の勅願寺となった。
代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重要文化財)と宸殿は、明正天皇より、旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。
書院前の庭にある大きな傘を持っ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。その周りには樹齢約700と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。
<宸殿>
延宝4年造営の明正院御所御対面所を、元禄10年(1697)下賜されたものである。内部は南端に上段の一の間を配してその北に二の間、三の間を続け、一の間には幅2間の床と1間の棚、そして付書院を備えた書院造りの構成になっている。江戸時代初期の院御所当時の姿をよく伝えている。なお、手すりは木を曲げたのではなく、その形に切り出されている。 |
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<庭園>
庭園は平安時代以来と伝える氷室池を中心とする池庭と、貞享3年(1686)に後西院旧殿を賜って建てられたという書院の南に広がる平庭の二つの部分からなる。
氷室池はかつては南へ更に広がっていたが、秀吉の伏見城築城の際に新道建設のため埋められ、現在の大きさとなったようです。
天明6年(1786)刊の『拾遺都名所図会』には”氷室池十五勝”、つまり15箇所の見どころが描かれている。当時の”翠微滝”は今は枯滝となり、中島の数も減っているが、一方で昭和10年(1935)には観音堂が新築されるなど、新たな見どころもつくられてきている。夏のスイレン、冬の水鳥の群れなど四季折々の美しさがある。
勧修寺庭園は平安時代以来の由緒を持つ寺院の庭であり、四季の自然美と人工の構成美を兼ね備えた名勝です。昭和63年(1988)、京都市指定名勝とされた。 |
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<本堂>
本堂は、寛文2年(1662)造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて、同12年に潅頂道場として建築されたものである。 |
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<観音堂>
観音様を御本尊に、現在の建物は昭和6年(1931)の再建で、大斐閣とも呼ばれている。 |
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<勧修寺灯篭>
水戸黄門の寄進で京都へ来られたら必ず見て通ろうと言われる灯篭です。 |
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紅葉が美しい秋の勧修寺の景観。
希望に起き
愉快に働き
感謝に眠る |