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創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山金地院と号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助)の隠棲地として有名で、大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊大聖不動明王は智証大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。また、この立礼の右手奥には大石良雄の遺髪塚及び宅址がある。赤穂城明渡しの後、彼はここに隠れてひそかに討ち入りの謀を巡らしたが、事成って後、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。その後、一時は荒廃したが、嘉永年間(1847〜1854)に京都町奉行浅野長祚(ながとし)らの寄付を受けて再興した。
境内には本堂と明治34年1901)に建立された木像堂があり、浅野内匠頭長矩公の位牌をはじめ、四十七士の木像や位牌、大石良雄の遺品等が安置されている。12月14日には義士忌が行われ、「山科義士まつり」で知られる討ち入り当時を再現する行列が訪れる。 |
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大石使用の手槍と大石主税の机。 |
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<良雄自作の硯石>
34歳の砌(みぎり)浅野公の代理を勤め松山城受け取りの大役に叡智を傾けて無事成功を収め幕府と君侯から嘉賞を受け面目を施した。
松山産大理石で良雄紀念の自作と伝へらる。箱は山水を金銀蒔絵が施されて漆器全盛時代の片鱗をととめている。 |
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<大石 所用膳腕>
山科隠家に取り残されていた大石良雄の膳腕と伝へるものであり、岩屋寺に秘蔵せる大石遺物の主なる1つである。即ち膳は四つ脚会席膳にて1尺角、高さ2尺3分、内側朱漆を塗り、右巻二つ巴の大石紋所を銀蒔絵とし、腕は紅葉に枯松葉をこれまた金蒔絵とし、金銀の二つ巴をちらしたもので、作風から見て元禄にふさわしいものである。
上右画像は大石所用の茶釜である。 |
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<大石 所用銭箱>
岩屋寺襲蔵の大石良雄の遺物と伝わる十数点の中でも、この銭箱は様式的にも当時のものと推定せられる。即ち栗材を用い、高さ1尺2寸、巾1尺4寸にて多数の鐵金具を打ち片開きの扉をつけ、内には桐製の小引出6個を設け、現代の金庫に近い頑丈な造りである。云う迄もなく赤穂開城以来の軍資金や生活費をも蓄蔵したと思はるゝ興味深きものである。
<くさり襦袢>
吉良邸討ち入りの同志47名の着用せりくさり襦袢。 |
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大石お手植えの梅。 |
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大源五、母御に送りし手紙。 |
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四十七士の木像 |
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<大石遺髪塚>
播州赤穂藩主浅野家の家老大石良雄(1659〜1703)は、江戸城内での刃傷沙汰で領地召し上げとなったため、縁戚で浅野家に仕える進藤源四郎の縁故により、進藤の出身地である山科に居を構えた。この石碑は、大石の遺髪を埋めた塚に建て、その隠棲の跡を示すものである。
自刃した内蔵助の遺髪を寺坂吉右衛門が持参し、祀ったといわれている。 |
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明治になり、東郷平八郎が岩屋寺を訪れた際の書である。赤穂義士と書かれており、東郷の心境を吐露していることが伝わってくる。 |