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五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では源氏物語の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(とおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。天慶8年(945)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した「然(ちょうねん)上人が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清涼寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算(じょうさん
)が清涼寺を建立して像を安置した。
昭和28年(1953)、釈迦如来の背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑など、26の宝物が発見された。寛和元年(985)の年記があり、正確な造像年代が判明し国宝に認定された。釈迦如来は、生身のお釈迦様とも呼ばれている。
本堂は、元禄14年(1701)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。
このほか、境内には、「然上人、源融、嵯峨天皇、壇林皇后の墓などがある。
<源氏物語ゆかりの地>
嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822〜895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。融は晩年に写経や造仏に着手したが、業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。永延元年(987)、「然は宋より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、宋の五台山清涼寺に倣った寺院の建立を目指したが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足したのが清涼寺である。かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は、現在、清涼寺の霊宝館に安置されている。
源氏物語「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨野の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。 |
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<謡曲「百萬」と狂言堂>
謡曲「百萬」は、大和国吉野の者が奈良西大寺辺で拾った小童を連れて嵯峨の大念仏に参詣すると、群集の中にわが子に逢いたいと狂い舞っている一人の女がいた。これを見た小童が「あの狂女こそ母である」という。
その郷里を尋ねると「私は奈良の都の百萬という者で、夫には死別し、一人子にも生別したので、心が乱れたのです」と答え、尚も再会を祈り舞い狂う。
心根に打たれて小童を引き合わせると狂女は喜び狂気もおさまって、仏の功徳を感謝しながら母子共に奈良に帰って行く、という物語の曲である。
狂言堂は清涼寺釈迦堂の念仏狂言のなされる所である。融通念仏の遺風とされる念仏狂言は弘安2年円覚上人の創始により、毎年3月15日涅槃会のとき、4月(日は年によって変わる)に行われる無言劇である。
<歌碑>
あでやかに 太夫となりて 我死なむ
六十路過ぎにし 露はかなくも
名優と謳われた初代中村雁治郎さんの末娘に生まれた女優中村芳子さんが、郭文化を今に残す京の伝統の中に生きるべく、昭和55年(1980)11月嶋原・夕霧太夫を襲名されて7年間太夫としてあでやかに、京のまちを舞われた。
惜しくも昭和62年(1987)12月3日お亡くなりになった。
ここに、夕霧太夫を偲んでこの歌碑を建立した。
昭和63年11月13日 夕霧忌施主 井筒八つ橋本舗 津田佐兵衞 |
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