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二尊院は、「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼ぶが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」といい、明治以降天台宗に属している。嵯峨天皇(在位809〜823)の勅願により慈覚大師が承和年間(834〜847)に開山したといわれている。
釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくれる「発遣の釈迦」といい、阿弥陀如来は、その人が寿命を全うしたした時に極楽浄土より迎えてくれる。これを「来迎の阿弥陀」という。共に鎌倉時代の春日仏師作(重要文化財)と伝わったいる。この思想は唐の時代中国の善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれた。その為に現在は法然上人二十五霊場十七番札所になっている。当寺は、明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり、御所でのすべての仏事を司り公家方との交流も盛んだった。 |
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総門は豪商角倉了以が、伏見城の「薬医門」を移築したもので、参道は紅葉の馬場といわれ秋には紅葉が美しい所です。
山中の時雨亭は藤原定家が百人一首を選定した場所として名高く、茶室御園亭は後水尾天皇第五皇女、賀子内親王化粧の間であったものを元禄10年(1697)に下賜され移築したもので、狩野永徳の腰張りがある。
梵鐘は慶長9年(1604)の鋳造でしたが、平成4年(1992)に再鋳し「しあわせの鐘」と名付け、第一に自分が生かされている幸せを祈願し、第二に生きとし生けるものに感謝し、第三に世界人類の幸せのためにと三つ撞いて、それぞれに祈願していただいている。
二尊院は、「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼ぶが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」といい、明治以降天台宗に属している。嵯峨天皇(在位809〜823)の勅願により慈覚大師が承和年間(834〜847)に開山したといわれている。
釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくれる「発遣の釈迦」といい、阿弥陀如来は、その人が寿命を全うしたした時に極楽浄土より迎えてくれる。これを「来迎の阿弥陀」という。共に鎌倉時代の春日仏師作(重要文化財)と伝わったいる。この思想は唐の時代中国の善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれた。その為に現在は法然上人二十五霊場十七番札所になっている。当寺は、明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり、御所でのすべての仏事を司り公家方との交流も盛んだった。 |
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応仁の乱(1467〜1477)によって諸堂が全焼したが、現本堂、唐門(勅使門)は約30年後に再建された。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)、唐門「小倉山」の勅額(後柏原天皇)は、このとき下賜されたものです。現在でも「二条家」「三条家」・「四条家」・香道の創始者である「三条西家」又、平成3年(1991)に行幸啓をされた今上天皇の姉鷹司和子の鷹司家の菩提寺でもある。又、本堂(京都市指定文化財)は特に京都御所の紫宸殿を模して内陣も紫宸殿の内仏と同様に造られた。また外陣の床は「うぐいす張り」となっている。 |
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境内の墓地にある法然上人廟(室町時代)。京都市指定有形文化財 |
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境内の一角に「小倉餡発祥之地」の石碑、その横にモニュメントが立っている。以下の「小倉餡発祥の由来」文は、落柿舎の近くに掲げられていたものです。
<小倉餡発祥の由来>
日本で始めて小豆と餡が炊かれたのは、京都において平安京ができて間もなくの820年頃のことである。当事、京のこのあたり小倉の里に、亀の甲せんべいを作っている和三郎という人がいて、809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作った。これを毎年御所に献上した。こうした菓子は極めて高価で珍しいものであったので一般の庶民の口には入らなかったが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり、又一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになった。
更に、空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となった。
和三郎は、承和7年(840)2月2日亡くなったが、その子孫ならびに諸国同業の人々がその功績をたたえて、小倉中宇愛宕「ダイショウ」の里に一社を建て朝廷の允許を得て、屋号が亀屋和泉であったので和泉明神としてまつられるようになった。
その後、年月を経て明神の社は兵火に焼かれ、子孫も絶えて只古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられている。 |